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良い世界、良いシステム、良い関係性を構築するためにお金は必要ですか?~愛と創造の貢献主義~

人の心で成り立つ謎のシステム

週1でお邪魔している止揚学園ではいろんなボランティアの方と出会います。(チャリティーコンサートをして全国を回っているシンガーソングライターの松尾さんや毎年学園祭に招待されている名古屋の金城学院、近所の人たちからの梨やトマト、ケーキやお菓子・・) 聞くところによると椅子や机なども寄付されたものを40年以上使っているそう。運動会で使う太鼓、視察にこられた団体からのお土産多数。

陶器の食器で日々を愛する

お邪魔する時は配膳のお手伝い/食後の掃除を担当。40-50人ほどの食事の配膳を、冷めないうちに素早く、かつ、入所者の方の無意識のフライングを阻止すべくギリギリまで配膳開始時間を遅らせ、ランチ開始時間までに完了させるミッション。その部屋全体を観ている責任者の方の暗黙の配膳開始OKのサインの有無を気にしながら、陶器の食器や湯吞の枚数を数えて配膳台にセット。配膳台の大きさも大きくなく、割れないように重ねる枚数も少しだけ。入所者の方の体調などの関係でテーブルに着席する人数が少しずつ毎日違い、メニューによって使う食器の種類も変わる。ご飯のお茶碗とお吸い物茶碗の形が見分けがつけられない・・・。嚥下機能の低下から出された食材を職員の人が食事の際にさらに細かくしてから食べるためハサミの準備も各テーブルに決められた数を準備・・。時々、看護や福祉の学校から実習としてやってくる学生も一緒に手伝うことがある際はマニュアルはなく、口頭で説明しながらのサポート依頼。

もっとオペレーションの改善ができそうなことがあるはず・・と思いながら、自分も少しずつ慣れてきたある日にさらなるミッション。「Aさん、Bさん、Cさんは食器を手で持てないから特別な食事を準備していて・・」と、マニュアル化も難しいはずのカンコツのきめ細かな個別対応の世界に感嘆していると

「私たちには同じにみえても、実は仲間のみなさんもそれぞれのお気に入りの食器があってね・・。陶器で食べると同じ食事でも美味しいでしょ? ベークライトの食器やコップを使うことは配膳側の事情だからそういう対応はしていないの。」

人を愛し、新しいものを創造する貢献主義

さて、本日もお邪魔してきたところ、美容師さんがボランティアでヘアーカットとネイル対応。聴くところによると20年も続いているとのこと。誕生日カードも持参されてランチタイムに仲間の方へ手渡しをされていました。美容師さんのようにカットもしない、シンガーソングライターのように歌も上手に歌えない僕はというと、いつもランチ前後に訪問し、食事の配膳と食後の掃除。また「仲間」へのコミュニケーションもどうやって取っていいのか、戸惑いながらもとにかく笑顔でいることだけ。。会社から一歩出ると個人で何ができるのか。企画や制度構築、コストダウン活動/組織変革のためのパワーポイントやエクセル、英語もここでは必要ない。常に自分でいて全力でコミュニケーションしてくる仲間たちにはコーチングは不要。そう、選択できる外部環境がない彼らの人生の現実。

施設の方いわく、

ここの仲間の人たちの存在が私たちの活動力の源。普通の会話はできないかもしれないけれど、しっかりとその表情で、笑顔で応えてくれる。ここにいる仲間がボランティアの人たちに何かを伝えてくれている。ここにいてくれるそのこと自体が、彼らのこの世界での使命であり、価値だと思うのです

「あなたには何ができるのか、どんなスキルをもっているのか」を常に問われるビジネスの現場。社会(会社)での即戦力となるような実務教育を大学に求め、そして教育も投資、、という考え方もすでに常識にすらなっているような学ぶ側や社会からの期待。スキルや才能を金銭的な評価や価値に一度置き換えて考える資本主義の世界とは違う世界の存在。

「”すべての人”が生まれ持った才能や身に着けた技術をコミュニティ全体のために役立てる生き方」 

プロフェッショナルって何でしょうか?何に対して人は対価を払っているのでしょうか?そもそもお金とはどういう存在なのでしょうか?

ところで、コーチングが大流行しています(私の周りだけでしょうか?)。私もコーチングをスクールで学び、副業として少しお手伝いさせていただいていますが、有料コーチングを宣言することに非常にためらいがありました(今も全面的にクライアント募集活動をしていない、明確な価格設定をしていない)。

相手を信じる自分の在り方、常に自分の人生のリーダーシップをとって生きていく在り方はこれまで自分の両親、人生の先輩や素晴らしい友人から、無意識のうちに教えてもらい、励ましてもらってきたこと。そこにあらためて自分がお金を払い、他者から「資格」として認定してもらい、他者から「いいコーチング/悪いコーチング」と評価されること、また、自分がそれを他者(社会に)にお返ししていくこと(「コーチング」を行うこと)に対してお金が介在するということはどんな意味をもつのでしょうか。

この問いとともに自分が「コーチング」のなかで見つけた気づきをアクションにつなげ、日々の仕事や生活の中でのちょっとした声かけのような小さなハードルを飛び越え、変化に対する準備運動。そして「コーチング」という言葉を使わないで、「思いっきり遊ぶ」ことをキーワードに、自分を信じ続けるリハビリをし、自分なりに理想の”コーチング”(とは呼びたくない:友達を遊びに誘う活動?)を追求しながら、3歩進んで2歩横に動く旅の中でこの地に移住することを決め、止揚学園と出会いました。(僕はクリスチャンではないですが)

世界に感動する。世界を表現する。世界を感動させる。

どういう時に人は世界のメッセージに気づき、その気づきが行動につながるのか。何が人を動かすのか、人を感動させるのか。自分の響きや抱える喜びや時々起きる難しさ、悲しさや寂しさ。

止揚学園のある猪子山の頂上

自分のスキルというよりも、自分の存在だけで、世界に喜んでもらえるような子供のようなエネルギーで、自分の近くのコミュニティでみんなで楽しく遊ぶため、「この指とまれ~」の指をたてられたられたらいいよね。

よく笑い よく泣き よく怒り
よく考え よく見て よく聞く
そんですべては 結果オーライ
一発勝負 ヨッシャ来い!
よく転び よく起き よく滑り
よく働き よく食べ よく寝る
いっちょここらで やったろーかい
一回きりの人生だい
あそぼう、まずはそれから
あそぼう、まずはそれから

ウルフルズ あそぼう



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