【レポート】Art for Well-being 研究会 Vol.2|水野 大二郎さん|2024年5月21日

本年度のArt for Well-beingプロジェクトをはじめるにあたり、これまでの取り組みを振り返るとともに、さまざまな活動や考えを学びながら表現・ケア・テクノロジーについて問いなおすことを目的に、「Art for Well-being研究会」を開催いたしました。
各回異なるゲストを招いて全3回開催した本研究会。
2回目は、京都工芸繊維大学 未来デザイン・工学機構 副機構長の水野大二郎さんにお話していただきました。


「デザインされたものにデザインし返されている」と感じる瞬間は?

お話に入る前に、アイスブレイクとして水野さんから参加者へ質問がされました。
この質問への回答をSlidoにて集めたところ、参加者の方からいくつかの回答があつまりました。中でも水野さんが注目したのは、「Google mapなどのルート」という回答でした。
「Google mapの話は象徴的だと思います。以前ある施設の入口に掲げる地図のデザインをしたのですが、日本はある特定の地点から見える景色を前提に地図を書こうとすることがありますよね。例えば、地下鉄であれば出口を上がって目の前にある風景に対して目の前の方向を地図上の上方向とする、東西南北は無視した表記の仕方をすることがある。対して、Google mapってデフォルトで使うと北を上にして東西南北が固まっていますよね。だから建物の地図とGoogle mapを併用する人は、逆にわけが分からなくなったりすることもある。カーナビとも似てる話なんですけど、「地図を使って一体どこに向かおうとしてるのか、が完全にデザインされていて、自分の思い通りにはいかない」ということは非常によくある話だなと思いますね。
「デザインし返されている」ということは、利用する人があるデザインによって行動や経験が制御され、逆説的にデザインが人を遠ざけていることのみならず、私たちがよかれと思ってデザインした世界によって、持続不可能な状況に私たちを追い込んでいる、という大きな問題です。例えば夏が暑いのは地球温暖化が原因の1つで、量産を旨とする製造業は色々と責任の所在を問われている状況にある。とはいえ暑いので普通の服だと不快です。そこで快適に過ごせるよう新たに高機能繊維の服をデザインし、量産し、販売し、それを消費する。これによって、温暖化の問題は短期的には解決したように見えますが、根本的には悪化し持続不可能な状況に自らを追い込んでいる。これがデザインにデザインし返されている、ということになると思います。」

水野さんによるプレゼンテーション

 続いて水野さんより、これまでの取り組みやご研究についてご紹介いただきました。
水野:改めてちょっと簡単に自己紹介をしたいのですが、若干皆さんの混乱を招くだろうなということも想定済みでお話させていただきます。
 今僕が「未来デザイン工学機構」というよくわからない組織にいることからも明らかなように、大学で研究されるデザインの対象が非常にぼやけてきているっていうのが近年の流れになります。以前はかっこいい椅子を作るとか、服を作るというような、あるモノの使い勝手についての話が主流でしたが、サービス産業の成長と相まって、形のある製品だけでなくサービスを提供するようになりました。
 例えば、「車がほしいんじゃなくて、A地点からB地点に行きたい」という人のために、移動する体験だけをデザインの対象として売るUberやタクシーの配車アプリがありますよね。そして、このようなデザインは、金融、医療、行政など様々な分野におけるサービスに拡張されるようになり、デザインはもはや製品や建築のレベルを超えて「社会全体をどのようにより良くするか」というところに拡張しつつある状態です。私はそのようなことを過去20年ぐらいにわたって追いかけ続けながら、望ましいデザインの活動、あるいはそれに資するような考え方がどのようなものなのかということを追求してきました。
 ここからは私が携わったプロジェクトをかいつまんで紹介します。デザインをするためには人間を理解しないといけないのですが、なぜそれが重要かというと、ビジネスマンやエンジニアは「これがいいでしょ」「これが売れるでしょ」と一方的に提供するのではなくて、人々が何を問題視しているのか、何をニーズとして捉えているのかということを解決しないといけないからです。そのための人間を理解する手段として、人類学の応用というのがあり、その中でもエスノグラフィー(民族誌学)と呼ばれるアプローチが非常に大事だとされています。僕はスマホという非常に身近なメディアテクノロジーだけを使って、末期がんが判明すると同時に臨月を迎えた僕の妻の出産から生活の記録をスタートして、ひたすら撮り続けるということをやりました。

 どのようなサービスであれ、それを利用する時に「あたかも人はそれに没頭し、何の問題もなくそのサービスを申請して使えるようになっている」というような前提があります。ですが、実際にはサービスを利用する人間はなんらかの困難を抱えているんじゃないかと思うんです。例えば生活保護を利用開始するときに人間はどういう状況にあるのかというのを考えてみると、海外から輸入されてきたデザインの考え方が無意識的に前提としてきた「健康体の白人の男性中心」ではなくもっと現場に近い理解が必要になってきているのではないかと思います。そういったことが、この撮影を作ることで明確にわかりました。
 実際このあと妻は闘病の末に亡くなってしまって、私は引っ越して京都に行くことになります。そうすると、みなさんが想像できるだけでも、遺産相続や、医療介護や、子育て、転職など様々な問題が出てくるわけです。サービスの問題は人生において困難な時期に縦走していくので、一つ一つの面倒が積み重なって大変になるわけですけど、そのような人間の移行期の生活を知るための研究を自分を対象に行いました。
 そんなことがあり京都工芸繊維大学へ行ったんですけれども、もともと「あり得る未来を探索するデザイン」をずっとやってきております。

<School of Food futures>

呼気センサーによる健康状態の計測

 ここでは、フード3Dプリンティング技術がもたらすあり得る未来の食べ物やサービスについての検討をしました。これは高齢者のデイケアみたいなところを舞台に想像しているのですが、そこでは、呼気センサーを使って体調を管理し、それのデータに応じた食べ物っていうのを出力して食べている。その先に結局何が待っているかというと、どんどんみんなが健康になるので、高齢者たちは自分のほうがより健康であるということを競い合うという(笑)そういう冗談みたいな話なんですが、フード3Dプリンタによってその人にとって最も最適化された食べ物を食べ続けるということが一体どういうことなのかなということを考えた研究になります。

センサーによる計測結果に基づきパーソナライズされた、未来の3Dプリント食品

<ワコール人間科学研究開発センター、京都工芸繊維大学 KYOTO Design Lab、Synfluxによる共同研究「未来の下着」>

アルゴリズミックデザインとバイオマテリアルによる未来の下着のプロトタイプ
©2021 京都工芸繊維大学|ワコール人間科学研究所との共同研究: 「3Dプリンタがもたらす下着の未来に関する研究

 食べ物だけでなく、衣服のことについても取り組みました。これも未来思索型の研究ですけれども、「生分解性をひたすら追求した未来」を考えたものになります。ファッション繊維産業で「買って、使って、捨てる」みたいなことができなくなった未来において、自分で素材を育てて、飽きたら土に戻して、また材料になるように加工する、ということを考えました。コンピュータアルゴリズムを使って自分の必要とする形状に適合化した服の形状を作り、その上にキノコの菌糸体からなる生分解性のレザー素材を培養することで、デザインした形のとおりに素材を培養させて服を作ることができる、というものです。

3Dプリント技術によるメタマテリアル構造のプロトタイプ
©2021 京都工芸繊維大学|ワコール人間科学研究所との共同研究: 「3Dプリンタがもたらす下着の未来に関する研究

<ファッションの未来に関する報告書>

ファッションの未来に関する報告書より

 また、近年では経済産業省のような中央省庁に対して、大量生産大量消費のモデルが困難になってきている現在において、求められる産業構造はどのようなことなのかという議論をし、報告書としてまとめ実証実験を行う、といったことも行っています。
 とにかく、地球規模での気候変動を前提としたときに、これまで当たり前に入手できていた材料が入手できなくなる、あるいは非常に高価になる、といったことが起きます。なので、できるだけすでにあるものの循環利用を検討していきたい。

これはコクヨさんと取り組んだ研究プロジェクトですが、コクヨさんの製品すべてを循環型に切り替えるための戦略的な設計指針を作る、ということにも取り組みました。

https://www.kokuyo.co.jp/sustainability_2023/materiality/resources/ より

 そのようなことに取り組んでいく中で、つい最近ですが「多元世界に向けたデザイン」という本の監訳を、京都工芸繊維大学の同僚の水内智英先生と、大阪大学の森田敦郎先生、神崎隼人先生とともに務め、翻訳部分を研究室の生徒にお願いする形で発行しました。
本日はこの本についてのお話と、この本から導き出されるような課題についてのアイディアを巡らせていければと思います。


ブエン・ビビールについて

まず、この本を貫く重要なキーワードとして出てくるのが「ブエン・ビビール」という言葉です。これはラテンアメリカで使われている言葉で、英語だと「ウェルビーイング」におおよそ該当するのですが、英語での「ウェルビーイング」とは趣旨が違う、というところが気になるところなんです。
・母なる大地に経緯を払う
・欧州中心的な近代化と植民地主義に抵抗し続けた先住民から生まれた考え
・発展ではなくてよく生きること
・人間中心ではなくあらゆる生命中心
・社会的連帯経済と呼ばれる非営利の部門も含めた多元的な経済社会の実現
ブエン・ビビールの特徴
 ややこしいのですが「西洋近代みたいなものによってラテンアメリカが開発された」という感覚は日本に住む我々にはあまりないんですよね。調べてみるとわかることですが、ラテンアメリカの人々は、大規模なプランテーションやリチウム鉱山などの開発によって、もともと住んでいた場所が存在論的な次元でもっていかれたりしているんです。「自分たちが暮らしていた世界そのものが書き換えられてしまう」みたいな危機感があって、そういう危機感が政治闘争的なものへとつながっていって、その先のブエン・ビビールになるんです。なので、ウェルビーイングの単純な、さわやかにより良く生きようみたいな話だけではないんです。ブエンビビールはある種の政治的闘争であり、「自分が自然の中にいて、自分が自然と不可分である、自然とともにデザインをして、暮らしを作っていく」という話に、占拠されてしまったラテンアメリカの領土の再獲得、という話がくっついてしまっているところが面白いところです。我々としても、ウェルビーイングと政治性って関係ないんじゃないの?と感じられなくもないのですが、実は意外と関係しているところがあるんだなということがこのワードをきっかけにして分かりました。また、重要なポイントとして脱成長とか技術的な退行をして先住民の暮らしをただ取り戻せばいい、と言っているわけではないというところがあげられます。技術の恩恵も他文化の貢献も否定せず、文化の多様性と政治の多元性を重要視している、というところも非常に面白いと思います。一方的な懐古主義とも違うわけですね。

One World World(ただ一つの世界)という考え方に気づく

 この話の背後にあるのが、著者アルトゥーロ・エスコバルの本から抜粋したキーワードになるのですが「One World World (OWW)」という考え方です。つまり、一個の世界しか世界がない、たった一つの西洋的な近代の世界のみ存在すると捉える考え方です。現状では、西洋的な考え方が中心的・支配的ですが、世界とお付き合いする中で、自国と相手の文化やしきたりがはまらないことってあると思うんです。必ずしも西洋近代的な暮らし方でなくてもいいんじゃないか、という考え方がこの本では「OWWから多元世界へ」という言い方で示されています。まずは、OWWというものがあるよね、ということを認識することがこの本を読むうえで重要なことかなと思います。
 それから、先程のブエンビビールを実現し、OWWに対抗するために、「自治・自律的である」ということが非常に重要とされています。共同体が自らをデザインしていくことが重要であるという考え方です。グローバル・ノースとグローバル・サウスではもうデザインの指針が違ってきますよね。開発が進んで脱成長を目指し始めたグローバル・ノースとこれからであるグローバル・サウスを並べるのは難しい。ただ、先住民のような非近代的な暮らしをただ取り戻したいわけではないので、生命の関係性を尊重する彼らの考え方が大事だということをこの本は指摘しています。

家父長制資本主義近代について

 意外なところなんですけれども、この類の話の背後で、エスコバルは「家父長制資本主義近代」なるものが諸悪の根源だというような話をしています(笑)すごいパワーワードですが…。
家父長制というのは囲い込み、コントロールで、家母長制というのは包摂とか参加なんですね。なので、家母長制を重視するようなことをもう一回できないかなと言うことで、「母なる大地」とか、「母なる川」というような母を主体とする言い方が文の中でもよく登場します。家母長制のモデルをただ回復させたいというのではなく、これを一つの例えとして捉え直したいということなんだと思います。みんなで仲良くなる、とか非人間も含めた循環的な再生とか包摂を検討していくことがポイントになるんじゃないかと思います。
 この本において特異だなと思うのは、デザイナーではないのにデザインのことをよく調べた人類学者が、デザインに新しい希望を託そうとしているところなんです。エスコバルの掲げる4つのデザインというのが、本日の冒頭の、私の研究の紹介の中で話したこととつながってくる内容です。
1.進歩的な物語としての世界の救済と無限の成長のための体系的な工業デザイン方法論
2.周縁化されてきた人々のための批判的、包摂的、参加型、持続可能なデザイン
3.デザインの政治性を考慮した参加型デザインの先鋭化、スペキュラティブ。デザインやソーシャル・イノベーションのためのデザイン、政策デザイン
4.多元世界へのトランジションとシステミック、エコロジカル、サーキュラー、リジェネラティブ、トランジション・デザイン
エスコバルの掲げる4つのデザイン
 例えば、ビジネスマンやエンジニアが人間不在で経済中心、技術中心に開発をしてきた反省として、人を巻き込み、理解しながらのものづくりを大前提としていく、ということですね。その中で、先程のブエンビビールというキーワードがあったように、デザインも技術も中立的であるというふうに見せかけはなるのですが、そんなことはなくて、何らかの形でそれらは政治的ですよね、と主張しています。
 ですから、政治性を考慮して参加型デザインを考えることが非常に大切になります。わかりやすく言ってしまえば、選挙によって意見が投じられて、その結果ある特定の地域に投票してくれた人のための行政サービスが展開される、ということが挙げられますよね。どこかに道が通ったり、地域が開発されたりするわけです。そのときに、ただみんなで意見を言い合う参加型デザインだけでなくて、政治的側面も帯びた参加型デザインというのも必要となってきてるんじゃないかと。また、4番目に来ているのは、人間の世界という一側面だけに関係しているだけではだめなんじゃないかという考え方ですね。
 ウェルビーイングというものを、非政治的・中立的なもので、特定の利用者の幸福に資すると考えるとちょっと限定的な理解になるのですが、ブエンビビールを通してウェルビーイングを相対化しようとしたときには、ちょっと違った見え方をするのでは?というのが、私からの指摘になります。

ディスカッション

 最後に、Art for Well-beingの全体監修を務める小林茂さん[情報科学芸術大学院大学 [IAMAS] 教授]、 一般財団法人たんぽぽの家 Art for Well-being 事務局の小林大祐、藤井克英が聞き手となり、トークセッションを行いました。(以下、登壇者の敬称略)
水野:
これからArt for Well-beingを考えていくうえでの問題提起として、話題を2つ持ってきました。
 1つは、「科学技術や市場経済を、場所に根ざした暮らしにどのように従属させるか」ということです。様々な問題の対応や救済を技術に期待しようとしがちですが、技術によって生み出された問題を新しい技術によって解決するのだというこの発想は大丈夫なのかな?という思いもありまして、これは本当に可能なのだろうかという問いがあります。これに対して、政治的側面を帯びるブエンビビールというものは、どんな風にとらえることができるのかなという疑問になります。
 もう1つ、前近代的な、「あまねくところに神様があります」「世界は神様によって作られています」というような世界観に対して、「神様じゃなくて科学である」という近代的な世界観があります。近代的な世界観の中では、職業を持つ人々がそれぞれ問題の系からは離されたところで問題に対応していくということが多かったのですが、それはもう一昔前の話で、今ではすごく相互依存的に、ネットワーク上に繋がり合っている世界の一部としての「私」がいますよね。つまりは近代以前の世界観にまた戻っている状況で、それを「ネオ汎神論的な」世界観とここでは言い表しています。「僕とミミズと土と諸々が繋がり合ってきてますよね?」みたいなそういう世界観の中で、究極的にはそれってヒューマンコンピュータインタラクションの拡張的な解釈だと言えるわけですよね。人間と非人間の間はコミュニケーションのツールがなかなか見つけづらかったりするわけだけど、もしかしたらコンピュータを介して認識することができるかもしれないと考えられなくもない。翻訳コンニャクみたいな感じで。
 そのように、大地と繋がれるとした際に、「大地が私達に属するのではなく、私達が大地に属するという世界観を構築することを、果たしてヒューマンコンピュータインタラクションができるのか」ということ、あるいは、「そういう世界観の中でヒューマンコンピュータインタラクションって何なの?」ということ、「単純になにか生き物をセンシングしてビジュアライゼーションして見せますということではなく、ブエンビビールに向けたものってどのようなものがあるの?」というのが個人的には気になっているところです。
小林(茂):それでは、まず事務局の藤井さん、小林大祐さんからそれぞれ水野さんに質問していただけたらと思います。

共同体のはたらきを助長させる要素とは

藤井:じゃあ私から。まず1つお聞きしたいのが、先程ワンワールドワールドのお話の中で、自律的デザインとして共同体が自らデザインするというお話がありました。自治体とか様々な共同体において共同で何かを行う際、感情や動きを助長させる要素として何があるのかということを、参考事例などがあればお聞きできたらと思います。
水野:ありがとうございます。共同体による自律自治的なデザインの動きというのは、トップダウンで行政主導でやるとか、完全にDIYでやるとか、地域の組織でNPOを組織する、といったようにいろいろな形で取り組まれてきたと思うのですが、この部分に関しては意外と日本は進んでいるところもあるなと思っています。
 事例でいうと、それこそ奈良県生駒市のチロル堂に象徴されるように、日本のデザインの賞があれをよいものだと認めているということがあるわけですよね。それってすごい面白いことだなと。逆に言うといわゆるかっこいい工業製品を受賞対象として設定して、これこそ至高のデザインであるっていう風にやってきた従来のデザインの賞とだいぶ方向が違いますよね。そこからも明らかなように、仕組みをデザインすることに究極的にはなるので、出てくるものの芸術・美学的な価値とはちょっと違うものが立ち現れてきているんだろうなということが1つあると思いますね。
 その中では、ウェルビーイングという言葉を使わなくても当たり前のようにそれが尊重されたり支持されているっていうのが、事実としてあるんじゃないかなと思っていて、そういう意味でグッドデザイン賞などを見ていても日本はそういうところはちゃんと評価しているんじゃないかなと私は思います。
藤井:ありがとうございます。
小林(大):最初の家父長制と家母長制の話は個人的に納得がいきました。Art for Well-beingの最初の目的である「ケアとアートの観点からテクノロジーを見直す」っていうところもけっこうそれに近しい感じだなという風に思っています。テクノロジーというものが軍事とか産業とともに発展してきたっていう歴史がある中で、そうではなく、ケアとアートという視点からテクノロジーの発展だったり繁栄っていうところを考え直す時期でもあるのかなというところはあるので、まさに家母長制的な見方なのかなと思います。

どんなプレイヤーを目指すべきか

小林(大):質問としては、プレイヤーの話を聞きたいなと思います。今ブエンビビールの話などがある中で、どういうプレイヤーが今後来るといいのかなというところですね。今、自分たちも福祉の現場で色々なデザイナーや技術者の方々と一緒に取り組んでいますが、お互いが協調し合って実験的に関わったり、失敗も許容しつつ取り組んでいるのですが、一方でなかなかそういうプレイヤーは増えないだろうなということも考えます。なので、水野さんにどんな人が出てきたらいいかな?みたいなことをお聞きしてみたいです。
水野:ラテンアメリカでブエンビビールみたいなことを追求している人たちは実際にワークショップとかいっぱいやっているそうで、本にも書いてあるのですが、具体的にどういう環境、どんな現場でどんな風なことをしているかっていうイメージはあまり呼んでいても想像つかなかったんですよ。ただ、監訳者の一人の神崎さんがラテンアメリカの研究をされているので、「僕はこういうイメージがすぐ思い浮かびました」といって写真を見せてくれたんです。30度を超すような暑い環境で、風通しの良い、カラフルなんだけど朽ちた感じの室内の中で、そこら辺に住んでいそうな皆さんが、短パン・サンダル・Tシャツみたいな格好で地図を広げながらやいやい話し合っているっていう、そういう感じだったんですよね。僕はすごいこれが面白いなぁと思ったんですよね。つまり、プレイヤーがデザイナーとして、真っ黒の服や、襟がないシャツを着たり、丸い眼鏡をかけたり、かっこいい白髪をしていたりしない、その場の人であるということですね。それはなかなかいいなと思いました。
 すなわち、プレイヤーを育てようとした際にすごい矛盾が生じるっていうことなわけですよ。一部の大学や教育機関では、このような取り組みに参加できることを売りとして教育事業みたいなものを展開して学生募集をかけたりして育てようとしているということはわかっているんだけれども、本質的には頑張るべきはその場の中の人だと思うんです。だから、経済産業省が今インタウンデザイナーという言い方で人材を地域に潜り込んでいって、衰退する産業や地方行政の課題を解きつつ、地方での暮らしを豊かにしていく役割として期待されている。企業の中で、製品開発、サービス開発に携わる人をインハウスデザイナーと呼びますけど、その対極に位置づけられたインタウンデザイナーというのが提唱されつつあります。ただ、それがかつてのジャパンブランドを育てるために東京から一時的に人がやってきました、というようなことではもうダメなんだということなんです。
 半分以上(その現場の)中の人になっていないと面白くならないということなんだろうと思います。ただ、このようなプレイヤーを「育てる」ということに関してはちょっとまだ矛盾はあるんですけれども、大学とか教育機関の一部ではちょっとずつ盛り上がりを見せているなとは思っています。
まぁこれは究極的にはそこで学んだことは大して役に立たなくて、現場での悪戦苦闘とか闘争みたいなところから新しい活動や表現が立ち現れてくるのだろうなという風に思っています。
小林(大):私もインタウンデザイナーの考え方がすごい好きなんですけど、FabLabっていうのはインタウンメイカーみたいな位置づけができるんじゃないかと思っていて。街のメイカーであり、そこを起点にいろいろな人々を共同体を作っていくことが目指されているところなのかなと思うのですが、そのあたりについてはどのように紐づけられているのか、ファブラボに関係の深い水野さんからお聞きしたいです。
水野:3Dプリンターやレーザーカッターを有していて、誰でも参加できるデジタルファブリケーション工房としてのFabLabというのは、社会インフラ基盤みたいなところがあるので、いろいろな目的、用途、機能が果たされる場所だと常々認識しています。例えばロシアのFabLabは宇宙開発に資するような人材の育成に力を入れていて、FabLabを使ってロケット開発コンテストみたいなことをやっていましたし、かと思えばインドネシアのFabLabでは地域の材料をいかに使いこなすか、といったことに取り組んでいたりします。なので、実はFabLabにも色々ありまして、STEM教育と言われているアメリカを中心とした理工系の技術主導型の教育基盤としてのFabLabだけではなく、地域のニーズを地域で解決するという場所になったり、個人的な表現活動をテクノロジーによって拡張する場にもなっていると思います。FabLabの多様な側面を見たとき、共同体による自治・自律的なものとの相性が大変いいと思います。また、実際に地域内で材料が循環できるようにするための活動に取り組む人々もこの十年ほどで増えてきました。
技術のインフラにあたるようなプラスチック樹脂材みたいなものも、直接石油を掘りに行くというレベルまでいかずとも、自分たちで溶かした剤を溶かして再利用するということが盛んに行われていたりだとか、生分解性材料に切り替えていこうみたいなこととかも諸々あるので、FabLabみたいなものとその周辺環境との接合はますます高まっていくのではないかなと思います。個人的な表現ということだけではなくて、個人の表現と周りの環境との相互依存的な共振する何かが、どんどん顕著になっていくことを期待したいなと思います。
小林(茂):そのあたりは藤井さんもきっと日々の活動から何か感じていることとかがあるんじゃないかと思うのですが、どうですか?

技術的な新しさや感受性を開発する際のポイント

藤井さん:そうですね。今の話の中で相互依存っていう話が出たんですが、人間性以外からの依存度をどのように人は受け止め、何を持って感知するのか。いろいろなテクノロジーの中で、何かをセンサリングをするような技術的なアプローチもあるとは思うんです。先ほどブエンビビールは技術も否定せず受け入れるというお話もありましたが、人間以外の生命とのつながりを見出す流れの中で、そういった技術的な視点での新しさや感受性の開発みたいな部分でどういったポイントが有るのかなと思いました。
水野:自然との調和的な暮らしとしてのウェルビーイングとかブエンビビールみたいなことを技術を介して考えるにあたって、僕が面白いなと思っているのは、ある特定の木に水をあげると実がなる、というようなわかりやすい入力と出力の結果というのを嘘だとみなすこと。というのも、実際には木は、土、気候、風、ミツバチといった複雑なシステム、関係性の中で実をつけるからです。で、これを極端に推し進めて内容すら考え直そう、みたいなことをやっている人たちがいるんです。その中には協生農法というものを展開している人たちがいます。協生農法の協生とはSymBiosis、つまり色々な生き物が来れるように色々な植物を育てようとする農法です。例えば、よく畑でネギがザーッと並んでいるのを見ますけども、単一で作物を育てるとどうしても土地は痩せていきますよね。それで、有機肥料や化学肥料を追加したり、色々な対応をするわけですが、そのように人間が制御可能なものとしてネギだけを効率的に育てようとしなくても、色々な生き物が来れるように色々な植物を育ててしまえば、お互いがお互いを支え合ってどうにか育つんじゃないかという考えで農業をやっているんです。かつてはめちゃくちゃ怪しまれて、スピリチュアルなものとして扱われていたんですが、近年ではきのこが植物間の連携を図る重要な存在であるということが研究で明らかになってきていたりしていて、色々な生き物がいるほうが良いんじゃないかという説の支持が高まってきています。
 このようなことから、色々な種類の植物を育てる農園を作ろうとするんですが、そうすると足の踏み場がないことが問題になってくる。そういうときに、収穫を助ける存在としてアグリボットが出てくるんです。人間の手で一個一個見ていたらきりがないので、機械に収穫時期のチェックや収穫を任せていこう、というものですね。自然を制御可能で工業的なものとしてではなく、もともとあった有機的なつながりの結果としてもう一度見てみる、となったときに、科学的な視点を抜くことはできない。なので、「新しい技術によってバラバラのものはバラバラのまま対処できるのではないか」という風になってきています。農業系の周りでこういう技術が色々出てきていて、それがなぜかオランダを中心にして非常に盛り上がりをみせているというところが、面白いかなと思っています。
藤井:ありがとうございます。
小林(茂):それでは、私からも質問させていただきます。水野さんが最後の方に話されていた最近の関心というところで、場所に根ざした暮らしにどのようにサイエンスやテクノロジーとか市場経済を従属させるのかという話だったり、ネオ汎神論的な世界観の話があったと思います。これらについては色々と参考になりそうなものもあるかなと思うんですが、先程の家父長制資本主義経済というエスコバルの話は「コントロール」「囲い込み」みたいなものだったりするんですけど、そういうものにつながっていったサイバネティクスについて、もともとはそうじゃなかったんじゃないかって考えようとしている人たちがいるということも参考になるな、とこのArt for Well-beingのプロジェクトと平行して考えてきたところがあります。また、先程の「コロンビアだとこうだ」みたいな話とか、少し前だとデザインをめぐって「〇〇デザイン」とか「〇〇思考」みたいなものが次々と出てきて「どうすんだそれ?」みたいになったり。あと、エスコバルの話でいうと、『開発との遭遇』っていう分厚い本があり、読むと陰鬱になっていくというか(笑)。翻訳された北野さんが解説で、いかにコロンビアは開発に抵抗したかという話と、いかに日本がダメかっていう話を分厚く書いていて、本当にしばらくどんよりしつつ(笑)。

水野さんが思う、未来への明るい兆しとは

小林(茂):だからといって日本に何もなかったっけ?っていうと、先程の奈良のチロル堂の話もそうですけど、宮本常一の『忘れられた日本人』とかがもう一回注目されるみたいなこともあったりして、どこかから輸入して新しい考えを取り入れようとするのではなくて、そういう考えもあると知ったうえで、自分たちの周りに何があるんだっけということを見たり探したりしていくと、けっこう色々ありそうなんじゃないかっていう気はしてるんですよね。そのあたりで、最近水野さんが希望を見出しているところとかってあったりしますか?
水野さん:僕としては希望の種はいくつもありまして、1つは、「今まで排除されてきた、あるいは無意味・無価値とされてきたものにもう一回関心を当てよう」というような視点を持つことがあげられるかなと思います。
うちの研究室の修士の学生が都市農園を調査対象にしていたんですけれども、都市農園ではコンポストを作るのが難しいということが調査から見えてきたんです。言い方をかえると、土が堆肥化しないんです。堆肥化せずに、ただの枯草の山になり、ゴミになってしまう。そのような無意味無価値なものをもう一回使いこなせるような能力を我々がつけなければならないということで、生分解するためにはミミズと仲良くなるしかないという話になるわけなんですね。土の中にいくつか穴が空いているとか、ミミズがうねうねできるとか、土がしっとりしているといった諸々の条件が揃って初めてミミズは枯れ草を食べてうんちを出して土壌が使えるものになっていく。最終的に修士の学生は土のブロックをデザインしたのですが、それには炭とか竹のチップのような色々なものが混じっていて、ミミズだけじゃなく色々な微生物がその土に住んで土を食べられるようになっています。

Comoris BLOCK / ACTANT FOREST, Poietica

 それによって人間と分解者がうまく協調的に暮らせるようにするというデザインだったのですが、それってサステナビリティ・サイエンスや、生態学や、スペキュラティブデザインやバイオアートがくっついちゃって非常によくわからない領域になっていて、あり得るポイントになるんじゃないかなと思うんです。つまり、何が言いたいかというと、無価値・無意味になってしまっているものを見つけようってことですよね。現在の経済のシステムから「外部不経済です」と言われる形で、お金を払って処理してもらったら良いとされる「何か」を。あるいは、お金としての価値がないので放っておこうとされる「何か」なんです。我々にはもうすでにそれをうまく使いこなせる技術はあるんじゃないかと思うんですけれども、経済的になんとなく無意味・無価値であると認識しているがゆえに特にアプローチをしてこなかったわけなんですよね。でもそこをもう一回アプローチできるようにするっていうことが非常に大きなポイントになるんじゃないかなと思っています。ひいてはそれが、縁起がいいってことかなと思います。
小林(茂):縁起。

「縁起がいい」ことを追求する

水野:この縁起っていうキーワードはエスコバルの本でも出てくる言葉で、日本人にも大変馴染みがある言葉だと思いますけど、縁起がいいってバタフライ・エフェクトみたいな世界観の話なので、「茶柱が立ったので縁起が良い」みたいなことをデザインするとかって訳解んないと思うんですよね。でも、もしかしたら僕らが考えるサイバネティクスとか、ネオサイバネティクスとかっていったような世界観を取り戻す、あるいはそれを作ろうとしたときに、日本で親しみのある見え方とかありようとか行為の仕方とかっていうのは、実は縁起が良いってことでもあるのかもしれないなとも思います。すごい曖昧かつ抽象的な言い方になっちゃいますけども、そのような世界観というのは確かに存在するんじゃないかなと思いますね。
小林(茂):それでいうと、Good Job!センターはお蚕さんを飼っていますよね。
藤井:そうですね。今お蚕さんが育っている最中ですね。
小林(茂):あれって今は何年目になりますか?
藤井:もう6年目になります。先程の縁起が良いっていう話ですが、偶発的な事象ということではなくて、なにかの事柄と事柄がつながっていくっていう縁起を我々もお蚕さんを買いながら気付かされていくことがありまして、かつて土着の文化として民家や地域で飼われてきた家畜という存在であり、生命としての本質的なところから人間的なところに変化してきたところや、生き物としてのその価値というところと、そこから取れるシルクとしての活かし方という、決してぶつ切れではなくて、何か違う形で命を紡いでいくっていうところであったり、その紡ぎ合わせるというような縁起というものは、よくお蚕さんを飼っていて感じます。
小林(茂):そうですよね。だから、色々なものがつながっているというのが普段の生活だと見えづらくなっていて、そうすると想像することもできなくなるんですけど、縁起っていうふうに見ていくと「あれとこれがこうつながってこうなる」みたいな想像力を広げられる、というのはあるかもしれないですよね。

デジタルな縁はありうるか

小林(大):縁起が良いとか繋がるっていう話をするときに、VRやNFT、ブロックチェーンのようなものについては、デジタル上で繋がるという話はあるけど縁起の話になったときにはたと姿がなくなって、なかなか話題に出てこない(笑)逆に茶柱の話になったりとかして、そこにけっこう違和感があります。めちゃめちゃ(デジタル技術で)つながると言ってるけど、なかなかそういうところには登場しないなっていうところがけっこうもどかしいところもあるし、悔しいところでもあります。僕はもっと登場してもいいのになと思うんですけれども、そういったデジタル技術系に関しては水野さんはどのように感じられている、あるいはどのように(縁起の話と)紐づけられるのかをお聞きしたいです。
水野:DAOって脱中心的技術的組織を指しているわけですよね。そのシステム上の有りようの一つがブロックチェーン技術を介したNFTなどのアート取引になったりするっていうことだと思うんですけれども、それ自体は非常にドライな技術として見ることもできなくはないと思うんですが、縁起がいいという解釈を与えることももちろんできるかなと思います。この類の話っていうのはインターネットとソーシャルビジネスが盛り上がってきた黎明期のときにもけっこう出てる話だと思うんですよ。例えば、インターネット上でコミュニティを作りますよっていうときに、日本語だと今までどんなのがあったかな?みたいな、郷に入っては郷に従えの「郷」に加え、「団とか「座」とかね。いろんな集まりを指し示す一言の漢字があって、それぞれ微妙にニュアンスや関わりしろが違いますよね。僕はそういうものを見直す流れが、web3.0以降にもう一回生まれてきているんだろうなと思います。
今の話はただ縁起がいいDAOの世界っていう話とか複雑系システム理論の話として解釈するってことだけではなくて、もうちょっと推し進めて、名前を相互依存的な関係性を指し示すおもしろキーワードにして、日本に今まで歴史的にあったものをもう一度技術を通してやろうとすると、その技術に何が足りていないのかが見えてくるかもしれないし、それによって面白い視点をもう一回再獲得できるのかもしれないなと思います。
小林(茂):そうですね。そういう面白い視点が獲得できるはずだし、獲得しようとする姿勢がけっこう重要かなと思っています。というのも、去年ヴェネチアで建築ビエンナーレが開催されたんですが、日本館を除く他の国々はほぼ大反省会みたいな状態になっていて、いかに近代がダメだったかみたいなことをみんなで反省するっていう内容で、新しいものは作らないとか、前回のものをそのまま残しておくみたいなことになっていて。まぁ、それはそれで大事なのかもしれないけど、それでどうするんだっけ?みたいなところがよくわからなくなっているのに対して、日本館はある意味そういう政治的なメッセージが薄いというので批判されたりしたんですけども、そこに藤井さんたちGood Job! Centerの皆さんが行かれてワークショップをしている光景っていうコントラストみたいなのはけっこう面白いなと思いました。そういう、縁起みたいなものを見つけていくようにすると、意外と「次どうしたらいいんだっけ?」みたいなところの先を考えられるようになるのかもなと思いました。
水野:そうですね。今日話題提供として最初にお話したその政治的なものっていうのはまさにベネチアビエンナーレで日本館が全くやってなかったことの話になっちゃうわけですよね。政治的な側面に対してデザインや建築とかがさも中立的であるかのように振る舞うっていう事自体が問題だったっていう話。でも、日本でも水俣病のときに振り切っちゃった人とかがいたわけじゃないですか。片側は完全にデザインアクティビズムに向かっていって、石牟礼道子さんのような活動に向かっていったんだけれども、もう一方では「本願の会」という、結局巡り巡って、私という人間が近代的な暮らしをしようとするから問題が起きていたのではないか、みたいな認識にたどり着いた人々もいた。「問題の一部に私がいる」と認識されたということでしょうか。問題を自分の外においてそれを批判するのか、問題を自分の存在の一部として引き入れて新しい活動をするのか、っていうことは考えたほうがいいのかもしれないなと思います。
なんとなく縁起が良いみたいな話と、創発的な環境を作り出そうみたいな、そのための技術を捉えようっていう話だけだと依然として中立的かなと思います。
web3.0自体がそもそも一元集中管理のプラットフォームに対する申し立てとして出てきている技術でもあるので、そういう意味で政治活動をしろというわけではないですが、デザインや表現のための技術を開発しようとしたときに、その技術がどこまで言っても中立的にはなれない。なので、その部分を加味しながら、ウェルビーイングのためのテクノロジーのありようをどうやって位置づけられるか、というところでどこかしら政治的な側面を帯びると思います。

技術に対して新たな解釈を投げかける政治性

小林(茂):そうですね。そこはもう、本当に極めて政治的だなと思ってこの取り組みに参画しているところがあって、例えば「これってこういうものですよね」って思われている技術が、Art for Well-beingの取り組みをやっていく中でぜんぜん違うものに見えてくる瞬間がある。そのような、技術に対して「こういう風にも解釈できるんですよ」って提示するのって相当政治的な活動だなと思ったりするんですよね。
一つ印象的だったのが、徳井直生さんとNeutoneという音色生成AIを使ってワークショップを行ったときに、参加者の方で「これってケアと同じですね」といったことを話された方がいました。それは、よく見るとか耳を傾けるというケアの根本にあるところと、身の回りの音を探すというところが同じですね、というお話だったんですが、それにすごくハッとさせられたところがあったんですよね。
水野さん:なるほど。
小林(茂):普通AIというとそのようには語られないですよね。テキスト生成AIをどう活用するか、といった議論がTVやSNSで毎日のように語られているわけですけれども、そうではない、Art for Well-beingに参加していなかったらおそらく気付けなかったであろう視点がたくさんありますし、実はこんな見方ができますよと発信していくこと自体も、水野さんが今日おっしゃった意味においての政治的なことだなと改めて考えました。
小林(大):最後に、水野さんからArt for Well-beingの取り組みについて何かあれば。
水野:僕が気にしているのは、「みんなで作ったカレーは美味しいよね」みたいな考え方であるとか、「新しい技術によって人間は進歩的に豊かな生活を手に入れる」というようなお話だけだと、事業としてもったいないかなということでしょうか。多分この事業は、「技術を開発する側の人々が、自分たちが良かれと思って作っているものがどうやって受容され、新しい方向へと位置づけられているのかを再認識できるかどうか」だと思うので、そこから今後どうするかの知見が導き出せるようにするといいかなというのが僕が期待していることです。
それを考えるにあたって、ラテンアメリカのブエンビビールという考え方は今日本語で飛び交っているウェルビーイングとちょっと違っていて、そこに面白いヒントがいくつかあるなということで、そんな言葉をうまく使えると面白いかもなぁと思います。
あとは縁起のような日本ならではの考え方をうまくプッシュできると面白いかもなぁと思います。
小林(茂):これは奈良にあるたんぽぽの家のみなさんがやっているということが大事なんじゃないかという風に思いまして、何かと伝統というと京都に目が向けられがちで、対する奈良は若干地味な感じなのですが、何が昔からあるのか、どこが変わってどこが変わっていないのか、みたいなことを捉え直すときに参照できるところがたくさんあるんじゃないかなと思いました。水野さんが紹介されたプロジェクトの中にあった、ウェルビーイングが健康であることを競い合う、みたいな方向ではないよねというところは皆が思いつつも、じゃあそっちじゃなかったらどっちなの?という部分をこのプロジェクトからうまく導き出していくことができるのではないかなと思っています。ありがとうございました。(おわり)


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