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シルビアに会いたい

映画「シルビアのいる街で」
2007年 スペイン=フランス映画
ホセ・ルイス・ゲリン監督

※この映画評はネタバレを含みます。

 主人公がシルビアを捜し続ける映画である。
 
 映画は、安ホテルの一室から始まる。青年が一人佇み、長い間、スケッチブックを前に考え込んでいる。「第一夜」というテロップにより、彼がこの街に着いたばかりであることがわかる。

 朝の光の中、街の裏通りを歩く様々な人々が描写される。素晴らしいのは音響で、言葉はわからないながらも、フランスの地方都市の朝の雰囲気が伝わってくる。しばらくすると、右側の古い建物から、主人公の青年が現われる(そう言えば、ホテルの看板がずっとそこにあった)。青年は向こうへと歩いて行き、路地を曲がって消えるが、カメラは、その後もかなりの長さに渡って路地を映し続け、人々が行き交う。

 通常、映画のショットは、主人公が画面に登場する少し前から始まり、主人公が画面から消えて間もなく終わる。しかし、「シルビア」という女性を捜すこの映画では、その前後をも映し続けるのである。これは困ったことになったと思う。観客は、主人公が画面内にいる前後も見ているのだから、そこに「シルビア」が現われるかもしれない。つまり、「シルビア」捜索を、主人公に任せてはおけない訳だ。

 青年はオープンカフェに陣取り、スケッチをしながら「シルビア」を探している。青年の視点から、様々な女性たちが映し出される(この描写はひたすら続く)。しかし、彼女たちの会話の音は途切れがちだし、その背景もわからない。まさに、カメラによるスケッチである。それにしても、本当に女性の個性は様々で、皆一様に魅力を湛えていると思う。ただ、どの女性も「シルビア」であるためには、決定的な何かが足りない。…シルビアはもう少し若い方がいい。…シルビアはもう少し神秘的であって欲しい。…シルビアはこんな笑い方はしない。…「シルビア」に会ったこともないのに、こんなことを考えてしまう。

 そして、二日目。ついにこのカフェに「シルビア」が現われる。「うん、まさしく彼女がシルビアだ」と観ている者も感じる。案の定、青年は大慌てで彼女を追いかける。しかし、…。青年は面と向かって声をかけることをせず、ひたすら彼女の後をついて行く。何度も路地を曲がり、立ち止まり、見失い、再び見つけ、また同じ路地を通り、路面電車に乗る。

  青年は、やっと彼女と言葉を交わし、人違いだったことを知る。私はこの時点で、我慢できずに時間を確かめ驚愕する。映画が始まってあっという間に一時間近くが経過していたことと、最初の人違いまでに85分の上映時間の60分近くを使ってしまったことに。

 そして、その後の約30分、観る者は「シルビア」だけではなく、人違いだったけれども魅力的な彼女の姿も欲し、追い求めることになる。

 「映画」とは「映像でストーリーを語るもの」なのか、「イメージの連続によって観客に創作させるもの」なのか。この議論は、大昔から行なわれてきた。少なくとも、この映画は、後者の可能性が魅力的であることを感じさせてくれる。ここで行なわれる「ストーカー」まがいの行為ですら、モラルを超えた興奮を与えてくれる。素晴らしい監督の、素晴らしい演出だと思う。

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