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番外編:監査法人とある会計士A①

パートナーから事務所の会議室に呼ばれたのは、5月の半ばであった。3月中旬から続いた会社法監査がいったん落ち着き、金商法監査やIFRS監査の準備を進める最中の連絡であったが、かろうじて残っていた脳のメモリを使い心当たりを探った。昨年急遽引き継いだ主査業務がうまくまわっておらず、チーム内から不満が出ているのか。あるいは評価面談に関わるフォームの記載をコピー&ペーストして済ましていることが上層部の耳に入ったのか。少なくともボーナス査定に響くようなミスは起こしていないはずだが、無自覚に迷惑をかけている可能性は否めない。


私は事務所の角の席から腰を上げ、運動不足も相まってすっかりと重くなった足を会議室に向けた。会議室まで数歩足を進めたところで、どうやら大事な点を忘れていることに気づいた。そうだ、チーム配属面談だ。私も3年目を終えそろそろ異動の時期であったが、監査業務に集中しておりチーム配属面談にまで頭が回っていなかった。確か以前に面談をした際はリモートだったはずだが、今期は異動の可能性がある以上対面のほうが都合が良いのだろう。
会議室の扉の前についた私は、心の中で一礼をして扉を数度叩いた。聞き覚えのある声色の返答を聞いた後、入社面接を思い出しながら慎重に扉を開けると、そこには第三者はおらず、先ほどのパートナー1名が柔和な表情で鎮座していた。私の予感はどうやら当たったようだ。


チーム配属面談は人事権を持つパートナー数名が、部署に所属する職員を対象にそれぞれ50数名に分けて行う。私の所属する部署は大きく5つのグループに分かれており、それぞれのグループ長であるパートナーとその他数名が面談を担当する。事前に被面談者の希望監査チームや希望業務は彼らに伝えられており、大枠は今後所属することになるチームのすり合わせを行う場となる。面談は1人30分程度おこなわれ、基本的には和気藹々とした雰囲気で終わる。

挨拶もそこそこにパートナーの対面の席に座った。
まずは「チームの雰囲気はどうか」「今年の阪神は先発が充実している」等の雑談から始まり、さっそく本題のチーム配属に話題が移った。少し気分がはれた私はパートナーに告げた。「もしかして希望のチームに配属してくれるのですか?」


私は現在所属しているグループCにある某証券会社の監査を希望しており、現に証券実務に関係する資格を仕事の合間を縫って一通りとってきた。もちろんそれらはパートナーである彼の耳にも入っているはずなので、少なくとも証券会社チームの配属は堅いと判断した。しかし雑談がもの足りないのか、はたまた複数の面談で疲れているのか、彼からの返答はなかった。数秒の沈黙を経て得ることができた彼の返答は「さて、どのチームでしょうか?」であった。残念ながら後者のようだ。


「第1希望ですか?」「第2希望?」「もしかしてアドバイザリー?」沈黙を埋めるように思いつく限りの選択肢を投げかけるが、彼の表情がやや厳しくなった。対話を諦め、机にある筆記用具に目を向けた直後「K社です」という言葉が頭上を駆け抜けた。一瞬何かの暗号かと思ったが、どうやら私が所属することになるチームらしい。K社という証券会社は聞いたことがない。視線を彼に戻すとなんとも形容しがたい表情をしていた。
だがこの表情は以前に一度見たことがある。ある主査が失踪した際にマネージャーから「代わりに主査をしてほしい」と決算日2週間前に打診されたときだ。この過去の経験と照らし合わせるに、K社チームへの配属はどうやら決定事項らしい。自分の運のなさと社内政治力の乏しさを恨みつつもその後なんとか聞き取れたのは
①K社はプライム市場に上場している会社で主査のすぐ下の立場として関与してほしい。
②K社はグループBに属している会社であるためグループBに異動となる。
③ただ、現在グループCで主査をしてもらっている2社についても引き続き主査をしてほしいの3点だ。
要するに、「君の希望は叶えられない。引継ぎ先が見つからない2社と合わせてなんとかがんばってくれ」とのことだ。

帰りは心の中でも一礼をせず、会議室を後にした。不安定な歩様で足を進めると、ちょうど入れ違いに会議室に向かってくる同期が話しかけてきた。言語として成立していたか不明だが、辛うじて発することができた音を2,3回交わした後、行きの倍の時間をかけて元の席に戻った。

とりあえず今回の面談を回顧してみた。大枠は私の期待を裏切るものであることに変わりはないが、①については不幸中の幸いであった。私の所属するA監査法人では、上場会社の主査は原則8年目以上の者が担当する。上場会社では、J-SOX、四半期レビューが必要であり、また多くの会社は国内だけでなく海外に子会社を持っているため業務の幅と難易度が格段に上がるからである。特に初関与となると主査業務の準備とは別に、チームや会社との関係構築、会社のビジネスの理解、1年のスケジュール感の把握から始める必要があるため最初の1か月は苦労をする。やはり主査と主査以外とでは、心身の負担に雲泥の差がある。

回顧の結果、異動の自己採点は20点くらいだろうと結論付けた。
希望は全く通らなかったが、K社のビジネス自体は今までの監査やアドバイザリーで関与したことはなく、全く知り合いのいないチームというのも面白いだろう。

ひとまず今日は19時くらいには退社して、早めに温かい布団に入りたい。
ふと窓を見ると5月にもかかわらず空は薄暗くなっていた。

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