「水俣曼荼羅」(2022年5月5日鑑賞)
京都シネマにて。
「終わらせてはいけない」という言葉の生まれる根源を探り、潜り、追っていくような6時間12分。暗がりでメモを取りながら観る。決してこの映画は感想を言葉にできるようなものではなくて、今までに観たどのドキュメンタリーもきっと本当はそうなんだろうなと。
第1部はこれまでの医療と政治的対応によって築かれた水俣病の異なる病像を問い、第2部では時を経て変わりゆく心象や信念を、第3部では石牟礼道子の詠んだ「悶え神」を題に現在まで続く闘いを映す。
「県に届かないことが国に届くわけないでしょう、県民の患者の主張を国へ届けるのがあなた方の仕事でしょう」と声をあげる当事者。
「水俣からは手を引いた」と語る医師。
和解を目指す特別措置法への賛否投票に唯一反対へ手を挙げた当事者の「自分の心が許さなかった」という言葉。
「病院に自由にかかれる手帳がほしい、ただそれだけ」。
「公害は水俣だけでなくこれからも起こりうる。後の人たちに今の闘いが役に立つように」と話す元原告団長。
「やっと認定でよかった、とは決して思わない」。
「学問はふたできませんからね、やるしかない」と大学教授。
「国と喧嘩なんかするもんでない」と認定を勝ち取った裁判を振り返る当事者の言葉。
それを聞き、また別の当事者が発する「あれだけ喧嘩してやっとこれですよ。戦わなければ。戦ってもやっとこれくらいなんですよ」という言葉。
当事者から行政への申し立ての場に「謝らない」と書いたメモを持ち込む、環境省職員。
「勝訴しても後退」。
豊かな海づくり大会で水俣を訪問した陛下の詠んだ「あまたなる人の患ひの もととなりし 海にむかひて 魚放ちけり」という歌。
「水俣の中で水俣病のことを話すのはタブーになってるんですよ」と語る患者。
胎児性患者である坂本しのぶさんの作詞した歌。「私も鳥になって いろんなところばみてみたいな ひとりでアパートに住んで 子供にもどってみんなとはしったり 恋の話もしてみたい」。
多くの魚と水銀が埋め立てられ、現在は地上が「エコパーク水俣」となる、その海の底へ潜り撮影を行う監督。この映画がなければ決して多くの人の目には触れなかった場所、あるいはそうした語りがたくさんあっただろうなと。一方で監督のやり方へ異議や疑問をとなえる当事者もおり、ドキュメンタリーを観る際に常々考える、撮る者と撮られる者の権力性を思う。
安全神話と、風評被害と、そのどちらとも完全に分離した形で存在する確固たる事実。水俣で育てられた茶葉でできた「天の紅茶」を一袋買って、大切に飲んだいつかの日々のことを思い出した。また手に取りたい。
裁判の途中にもかかわらず送りつけた「認定」によって、本質的な解決を避けようとする国の姿勢。赤木さんの「認諾」とほとんど全く同じ構造に見えて、やることはいつも、どの問題においても、変わらないのだなと。
患者の中でもさまざまな立ち位置や主張、身の置き所がある。時を経て変化する感じ方もある。当事者にしか分からないことがあまりにも多い問題において、我々に何ができるかという遍く疑問へ「悶え神であれ」と進むべき道を示してくれる、石牟礼道子。何もできないからこそ、するべきことがある。
鑑賞料金の高さから、観に行くか少しだけ迷ったけれど、観てよかったなと思う。自分がこれからどう人生を送るべきか、どんな文を書くべきか、どう闘いに添いていけるか、複数の道筋を照らしてくれるような映画だった。