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「能十番 新しい能の読み方」シンポジウムに潜入
「能十番」を読む(能楽学会東京例会シンポジウム)
今日は思い切って、能楽学会のシンポジウムに参加してみた。
テーマは、昨年12月に刊行された**いとうせいこう・ジェイ・ルービン著『能十番 新しい能の読み方』新潮社**を、謡曲の現代語訳・英訳の系譜の中に位置づけ、翻訳=解釈にどのような意義があるのか、言語芸術としての可能性は何かを探るというもの。
「果たして私に理解できるだろうか」「場違いな存在にならないだろうか」と、不安を抱えながら会場へ向かった。
会場は法政大学ボアソナード・タワー26階(最上階)。ガラス張りの窓から遠くの山並みが見える。参加者は約70名。予備席まで埋まっている。
「例会」と名のつく通り、能楽とは定期的に研究発表が求められる学問に値する芸能なのだと痛感した。
こんな場に「門外漢の能楽つれづれ」なんて薄っぺらいブログを書いている自分が来てしまってよかったのか。不安と慙愧を抱えつつ、末席に加わる。
「能を避けてきた」——いとうせいこう氏の言葉
いとうせいこう氏は『能十番』の冒頭で、「能を避けてきた」と書いている。
• 「これまで能に関わらなかったのは、能には“うるさ型”が山ほどいるから」
• 「物書きにとって、能は“あがり”のようなもの」
• 「能には“到達”というイメージがあった」
……この言葉に、激しく同意した。
特に「うるさ型が山ほどいる」という点。
「下手なことは言えないな……」という感じ(もちろん妄想)。これが、能が一般の人々との隔たりになる要因のひとつではないかと思う。
つまり、「正解」があり、それを逸脱することが許されない雰囲気。立ち居振る舞いまで指摘されそうな厳格さ。
「そんなことも知らないのか」というヒエラルキーが、そこかしこに存在している気がするのだ。
……とはいえ、実際にはそんな「うるさ型」にはまだ出会っていない。
むしろ、観能歴の長い方々から、丁寧に教えてもらうことが多かった。
「そんなことも知らないのか」なんて空気は微塵もなく、能の面白さを語ってくれる方々ばかりだった。そのおかげで、私はここまで能にハマったのだ。
こうした偏見を払拭できれば、もっと能が身近に感じられる人が増えるのではないか。
そう思えたので、「門外漢がつれづれに感じたことをブログに書いてもいい」と、自分に許可を出した。
シンポジウム・プログラム
• 能を読むことの面白さ – いとうせいこう
• 謡曲現代語訳の系譜と『能十番』 – 山中玲子
• 謡曲英訳の系譜と『能十番』 – 竹内昌子
• 鼎談
• 質疑応答
能楽初心者の私には、知らないことばかりの充実した内容だった。
いとうせいこう氏のこぼれ話が特に興味深い。
なんと氏は10年間、謡の稽古をしているという。
小唄を習おうと思ったのも、いとうせいこう氏が小唄をやっていたからだったが、謡もそんなに続けていたとは知らなかった。
今朝もリモートで謡の稽古をしたという。ちなみに師匠は安田登師(下掛宝生流ワキ方)。
謡曲を読み物として楽しみ、趣味で現代語訳を書いていたといういとうせいこう氏。
ラップやヒップホップをやる一方で、謡曲も読んでいた。
それが箱付きの本として出版されたのは「とても嬉しい」と語っていた。
謡うことは体力勝負?——「母音」の話
この著作関連のイベントで、いとうせいこう氏自身が訳を読み上げた際、酸欠になりそうになったという。
いとうせいこう氏によれば、「母音は発音にとてもエネルギーがいる」。
この経験を通して、「なぜ能にはシテ、ワキ、地謡という役割分担があるのか」が腑に落ちたそうだ。
すべての詞章を一人で謡うには、相当な体力が必要なのだ。
それに比べてジェイ・ルービン氏は易々と読み下す。子音の多い英語はエネルギーが少なくて済むようだと。
「能十番」と他の現代語訳の違い
現代語訳の代表的な書籍として、以下のものが紹介された。
• 旧体系(岩波)
• 新編全集(小学館)
• 集成(新潮)
• 対訳(檜)
• 名作選(角川)
これらの訳と『能十番』の違いについて、山中玲子氏が発表。
山中氏は、「現代語訳は文学としてのテキストである」と考えていると。
一方で、いとうせいこう氏は「プレイ(演じる)ためのテキスト」と位置づけて執筆したとのこと。
この違いが最も顕著に表れるのが「鉤括弧(かぎかっこ)」の使い方。
• 文学的な現代語訳 → 直接話法、間接話法、自由間接話法を駆使し、語りを整理
• 『能十番』 → 演じることを前提に、台詞とナレーションの違いを明確に
なるほど。
だが、そもそも謡本に鉤括弧なんてあっただろうか?
そんな疑問を抱きつつ、話を聞く。
いとうせいこう氏は「注釈をつけたくなかった」と語る。
本来注釈で補足すべきことを、本文の中にさりげなく盛り込むことで、プレイ(演じる)できるようにしたのだという。
また、掛詞や韻(言葉遊び)なども、字数を揃え、さらに意味がおかしくならないように工夫したとも。
「誰が」ではなく「何を」——謡曲の特性
竹内昌子氏は、**謡曲において「話者が曖昧になること」**を研究している。
その曖昧さは、自由間接話法によって生じるという。
謡曲では、「誰が」話しているかより、「何を」伝えようとしているかが重要なのだ。
自由間接話法がグラデーションで話者を曖昧にする。
例えば「井筒」。
謡のグラデーションが、女が男になって舞うことを促すのだ。自然に別のものに成り代わって、その存在すら夢か現か定かで無くしてしまう。
お能を煙のように感じる理由はこれだったのかも知れない。
この話を聞き、観世流と宝生流の『羽衣』で感じた「シテとワキの謡の逆転現象」にもようやく納得がいった。
「誰が」ではなく「何を」なのだ。
この答えを得られただけでも、大収穫。
そうそう、鉤括弧の件。
家に帰って謡本(観世流・宝生流)を確認したら、それらしいものがあった!これを鉤括弧として認識したことがなかったので大きな発見だった。この鉤括弧、始めだけでいわゆる最後の「かっこ閉じ」は無い。
美しい本 「能十番 新しい能の読み方」
この本、とにかく美しい。
• 光悦謡本を再現した美しい表紙
• しっとりした紙質の和綴(袋とじ)
• 優しげなスリーブ箱
これで3,350円。
ライムスター宇多丸さんが「新潮社はお金を配ってる!」と言ったそうだ。
お値打ち!
ぜひ、手に取ってほしい。