見出し画像

等身大の東日本大震災2

前回の等身大の東日本大震災1の続きです。今読み返すと、自分視点と家族視点と世間一般視点とがごっちゃになってるようで、分かりにくいかもしれません。


水と灯りと食料と

震災の翌日。実家でも電気・ガス・水道は使えませんでした。でもこの「ライフライン総崩れ」という状況が、私たちに大事なことを教えてくれました。
まず最初に気がつくのは「水」です。飲み水、ごはんを炊く水、トイレを流す水。水が無いとできない事が沢山あることに気が付きます。水探しを開始しますが自販機は電気が通ってないので動いていないしお店も開いていない。車で遠出して営業しているコンビニを見つけても長蛇の列。それにほとんど売り切れ状態でした。そしてガソリンスタンドも同様だと知ります。

お水どころか食料もガソリンも無いんだ…

置かれた状態は思ったよりも深刻だと分かりました。この状況では物流が止まってしまうでしょう。お店にある在庫が無くなったら、しばらく物が入って来ないかもしれない…そんな危機感が静かに芽生えてきました。
午後になってからラジオでなんとか地元の給水情報を得て、夕方になってようやく指定の小学校へたどり着きました。学校の校庭の端から端まで果てしない列。みんなペットボトルややかんや大きなお鍋を持って並んでいました。
この日は天気がよくて助かりました。
昨夜には自然の驚異に震えて、不安でいっぱいだったのに、日が昇ればそれだけで不安は消えてこんなにも行動的になれる。太陽が出ているってなんて有り難いんだろと思いました。
夕陽が沈むころ、やっとのことで水を確保した時の安堵感は忘れることができません。

帰宅して一息つくとハッと気付きました。
そうだ、夜になると家の中は真っ暗闇になるんだった。街…いや県全体が完全に電気が止まっているので、本当の闇に包まれます。そのことをうっかり忘れていた私たちは暗くなる直前に慌てて一部屋に集まって、朝が来るまでの間必要になるもの(食料・水・懐中電灯・石油ストーブなど)を揃えました。昨夜に比べれば恵まれた環境ですが、電気が無いと行動は太陽が出ているうちが勝負。日が暮れた後のことを考えて頭を使い、協力しなければなりません。

こんなふうに一日の始まりが水の確保からスタートして、食べ物やガソリンを探し回って、夜が来れば家族が集まって限られた明かりを工夫して使うなんて体験は初めてで、水の有り難さも太陽の有り難さも家族の有り難さも今までこんなに強烈に感じることはありませんでした。

この夜、私と兄は散歩に出かけました。空はやはり満点の星。
しかし程なくして、街灯やマンションの明かりが付き始めました。自販機も煌々と光っている!試しにお金を投入してみると…ぬるい缶コーヒーが出てきました!
「電気が戻った!!」
ここ数年まともに話したことが無かった兄と思わず乾杯です。
この夜の喜びは今でも忘れられません。

電気が復旧した夜、マンション群がどこも思い出したように警報を鳴らしていたのが面白かったです。彼ら(報知器)はあの激震の瞬間に停止したので、電気が通ったことで仕事しなきゃ!って一斉に発動したのかもしれません。

それなりに被災者

このあと水道が出たのは1週間後くらい。ガスは2週間以上経ってからの復旧。ガソリンスタンドは3週間後くらいに利用できるようになりました。でも私たちの地域は何にしても復旧が早かった方です。
以前に比べれば不便な生活でしたが、水汲みに食料の買出しにと毎日忙しく、友人の安否を確認したり会って励ましあったりで今すべきことをしていたと思います。
皮肉なことに被災地に近ければ近いほど、この震災の全貌は見えませんでした。
だから電気が復旧するとまずはみんなTVを見ます。そこで初めてこの日本に起きたことを知るのです。

繰り返される大津波の映像、取り残されて助けを待つ人々。野戦病院と化したような病棟で必死に治療にあたる医者や看護師。桁外れに増えていく死亡者・行方不明者…もはや地震ではなく「震災」と呼ばれていることにも愕然としました。
ラジオの、人が言葉に変換した間接的な情報とは違い、映像の力は強烈でした。
それはよく知る近隣の町で起こった紛れもない事実を映しているからです。
みんな固唾を呑んで画面の前から動けないでいました。そんな時に余震なんかくるともう、完全に当時のフラッシュバックです。やっと忘れかけていた恐怖や緊張が逆戻りしてしまうのです。
それだけ、あの地震で刻まれたショックは大きいのだと思う。

「ああ、私達は命があって有り難いんだ。こんなに酷い状況の人が沢山いるのだ。私達は恵まれている…」最初は皆が心からそう思いました。
でもそうやって次第に同情し、自粛し、重い空気に呑まれていくんです…。

ちょっと待った ヽ(-_-;)

私が残念に思ったのは、この後家族が一日中TVに釘付けということが多くなったこと。今にしてみれば私達は情報が入らなかったゆえに「それなりに被災者」でいられたと思います。

実は、実家は家の中も外もヒビだらけ。屋根は瓦が落ちてブルーシートだらけ。
落ちた瓦に車のガラスが割れてしまっているし、目の前の道路は何箇所も陥没しています。ここは「それなりに被災地」でもありました。課題は山済みで自分たちのことだけで精一杯でした。
でもそれで良かったんだと思います。
報道というのは、とことん被災地以外に向けられたものだと感じます。大画面が写しだす震災の悲劇は、有無を言わさず人の精神に入ってきます。必要以上に見ていると入り過ぎてしまうのです。ただ、精神を病んでいく人は今までもそうだったように自力ではそれに気付きません。
(父がパニック障害、兄がうつ病です)

忘れないで欲しい。
TVから完全に寸断されていた数日は心身共に健康だったことを。それはマスコミが映し出す世界ではなく、自分の世界を見つめていたからだと思う。自分をとりまく世界を一生懸命生きていたからです。

私は家族を含め、この震災体験者に言いたい。「自分はそれなりに被災者」と思うことが大事だと思います。
人にアピールするためではなく、自分で自分の状況を分かってあげるためです。我慢する必要なんてない。まずは自分や家族や友達に起こった災難を乗り越えることが最優先でいい。自分を助けずに他人を助けることなんてできません。

ましてや、1人の人間がこの震災の全貌を知り尽くすことも、全ての重さを背負うこともできはしないはずです。

この震災で知ったこと

震災から50日以上が経過しました。
あの頃は雪が降っていたのに、若葉がまぶしい爽やかな季節になりました。
私の住む仙台も少しづつ日常を取り戻しています。一時期は不安定だった家族も時間の経過と共に落ち着いて来ています。

以前と変わらぬ日常が戻ることは嬉しいけれど、あの日々に感じた大事なこと、私は絶対に忘れちゃいけないと思います。

この震災で知ったこと…
電気が街から消え去ったことで、夜の長さを知りました。夜を照らす美しい星空が、いつでも私達を包んでいたことを知りました。独りぼっちで怖いときは、ただただ人が恋しくなりました。お隣から聞こえてくる微かな話し声にも安心したほどに。
家族のもとへ行きたい。友達に会いたい。そして抱きしめたい。それができるだけで安心する単純な生き物だということを知りました。
お日様が世界を照らしてくれる有り難さを知りました。木や草や花がそこにあるから、私達の生きる場所が与えられているんだと感じました。
こんな時はきっと、頑丈なシェルターの中にいたって不安なんだ。こうして土や草木の匂い、お日様とそよ風を感じて歩けることが人間の喜びなんだって感じました。

それくらい自然はおっきい。
その中で私たちは育まれている。
ちっぽけな命なりに、今日も健気に生きていきたいと思います。

おわりに

唐突ですが日記(blog)は以上です。
長文を最後まで読んでくださってありがとうございました。小さな1人の体験として語ることは大切だよな…と思い書いた記憶があります。
私にはこの震災について何を学んだとか、どうするべきとか言う権利はありません。
だけど1つだけ思うのは、東日本大震災において日本人は「全員参加者」だということ。立ち位置や役割が違うだけだと思っています。犠牲になった人、そうじゃなかった人もみな胸を痛め、思いを寄せ、何かしらの形で肩代わりしてくれたことを私は感じていたし感謝しています。それら全部が東日本大震災だと思っています。
震災は被災地のもののように扱われますが、皆さんそれぞれの等身大の東日本大震災を大事にして欲しいなと思っています。

いいなと思ったら応援しよう!