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橋の下で与ったキリストの血と体

クリスチャンは洗礼の際に、初聖体・初聖餐を受けて、キリストが「これは私の体です」と言われた「パン」と、「これは私の血です」と言われた「ぶどうジュース(ぶどう酒)」をいただきます。
それ以後はずっと、聖餐式や聖体拝領の度に、キリストの血と体に与り続けます。

"また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。"

マタイの福音書 26章26~28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私は、所属教会とは遠距離で、家にいながらLINEでリアルタイムで礼拝に臨んでいました。

それで、当時は家族の宗教への忌避感が強かったため、家の中で聖餐式を受けることが出来ませんでした。
礼拝の中で、教会の仲間たちが聖餐式に与るのを見ていて、「良いなー」とずっと思っていました。

そこである日、教会の説教者が私に「平日に外出して、私と同じ日に洗礼を受けた友人と一緒に、聖餐式を受けないか?」と提案され、私は喜んで頷きました。

二度目に受けた聖餐式は、夏の晴れた日に青空の下で公園に寄って受けました。

私の友人も、家が仏教の信徒だったので、キリスト教が受け入れられず、聖餐式に与っていなかったので、二人でやっと与れたと喜んでいました。

そして、次の週も聖餐式に与ろうという話をしました。

次の聖餐式の当日、その日は雨が降っていて少し寒かったです。
友人と二人で、私が耳を取り除いた食パンを、友人が果汁100%のぶどうジュースを持ち寄って、大きな川の橋の下で雨避けをしながら、聖餐式に臨みました。

聖餐式は説教者に式文を読んでもらい、それに従って、二人で与りました。

この2回の聖餐式は、私と友人にとって大きな喜びでした。

聖餐式はキリストが制定されたことです。
聖餐式に対して、人それぞれの解釈があると思いますが、私はいつも守るべきことだと思っています。

"さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。
まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」"

マルコの福音書 14章22~25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私にとっては、聖餐式は死んだ儀式や習慣ではなく、確かに生きた喜び、それもキリストにある喜びでした。

主イエス・キリストを食べることは、永遠のいのちに繋がります。

永遠のいのちに与ることが出来るからこそ、聖餐式がただのパンとぶどうジュースを飲食することではないからこそ、喜びがあるのではないょうか。
キリストが与えられたその恵みを積極的に受けていくことは良いことだと思います。

"イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」"

ヨハネの福音書 6章53~58節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

たった2回、外で聖餐式に与っただけの昔話ですが、その2回で聖餐式の喜びと、キリストの血と体を強く求める信仰を建て上げられました。

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