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双子の証詞
私を母が身ごもった時、母の胎内では私以外にもう一人、私の双子で性別も分からないきょうだいがいました。
その子は、この世にはいません。
お母さんのお腹の中で亡くなりました。
医療用語で「バニシングツイン」と呼ばれるものです。
そして、双子の流産の時と同時に切迫流産になり、母が絶対安静を守らなければ、私の命も失われるところでした。
身ごもった子の死、母自ら望んで宿されて幸せだったはずの妊娠から、母は私さえも死んでしまうことのないように、悲しみに浸る時間も無く、私の命懸けの妊娠の期間を過ごして、私は無事に生まれてくることが出来ました。
だから、私は特別に家族から愛されていました。
私が生まれた時は、人に関心を持たない親族でさえも、生まれてすぐの赤子の私を見舞いに来ました。
そして私は愛されすぎて、逆に過保護を受けていた人間でもありました。
世間知らずの箱入り娘で、昔も今も常識が分かりません。
しかし、私は健康で生まれてきたわけではありません。
幼少期は気管支が弱く、喘息を患わないために、冬は常にマスクをして、咳の一つでもしようものなら、すぐにかかりつけの小児科医の元へ連れて行かれました。
私の双子が亡くなった時に、産婦人科の医師は、「亡くなった子は体が弱くて、生まれても長生きできなかった」。
そのように、母は医師から告げられていたそうです。
その時の母の気持ちを考えたら、胸が締め付けられる思いになります。
私はその双子の片割れです。
だから、私は今、病気の集合体のような、6つも7つも、10も病気を抱えている人間なのかもしれません。
母はそのように体が弱く生まれた私に、ずっと負い目を感じていたきらいがあります。
話は飛びますが、私はキリスト者になった時に、キリストの流された血の贖いを知りました。
その理解が深まる度に、私は「十字架の血の贖い」が、私の双子の片割れの死に繋がっていきました。
何が言いたいかというと、私が生まれて、キリストによって救われて罪が贖われるために、「双子の片割れが血を流して犠牲になった」ということです。
この言葉は、人によってはとても恐ろしい薄情な言葉に思えるかもしれません。
しかし、ずっといなくなった双子の姿を探していた私にとっては、それは救いの言葉、天の御国への希望なのです。
だから、私は牧師から教えられたことも合わせて、このように考えています。
「確かに私の双子は死にました。それは、私の贖いのためです。しかし、この双子は地獄に落ちたのではなく、天国で聖霊の衣を着せられ、生まれて育っていたはずの一番美しい姿でイエス様と共に永遠の命を生きている」と。
実際に、私はこれで救われました。
聖書箇所を示されて、自分の死生観を捨てて、キリストの生き方を信じ、信仰告白と洗礼を授かるに至ったのです。
この言葉は、救われる前の生と死が分からなかった虚無主義者、悲観主義者の私を救いに導きました。
だからこそ、私は天国に希望を持っているのです。
[エペソ人への手紙 1:7]
このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
病気を集めた体のような私は、キリストを信じ、心から信頼できる大切な人と出会うまで、病気の傷みを我慢していました。
ですが、最近になって恐ろしいほどの頭痛に悩まされた時、生まれて初めて私はボロボロと涙を流して、「痛い」と人に言いました。
それは、キリストへの叫びでもあったと思います。
私の血管は、人よりも多くの白血球が流れているようです。
同時に、風邪も引いていないのに、体のどこかで炎症が起きています。
原因不明の微熱が出たり、引いたりしています。
いつも腹痛に悩まされています。
他にもたくさん、心身共に苦しんでいます。
それでも、私が希望を持てるのは、イエス様が天国に私を連れて行ってくださるから、私の罪意識をイエス様が十字架で取り除いてくださったからです。
そして、天国の聖徒たち、地上にいる兄弟姉妹たちが祈っていてくださるからです。
今の私は、とりなしの祈りが出来なくなっています。
ですが、とても感じるのです。
「誰かから祈られている」と。
私は自分の命や病気のことで何も怖くない、とは言いません。
しかしながら、病気の苦しみからは本当に解放されつつあります。
でも、やはり病気の恐怖があって、しんどさを自ら強めているような気もします。
そして、私はある時、母に聞いたことがありました。
「亡くなった双子の名前って付けていたの?」。
母はこう答えました。
「亡くなった後に付けた名前だけど、もし生まれてたらね、『ゆり』って付けようと思っていたんだ」。
「『ゆり』ってどんな字を書くの?」
「それは、柚子の『柚』に、くさかんむりに『利』で『莉』だよ」。
母から教えてもらった、亡くなった双子の名前は「柚莉(ゆり)」です。
母は亡くなった子に名前を付けるほどまでに、私たちを愛していました。
母は片時も、亡くなった子のことを忘れることはありません。
母でさえ、そのように私たちをずっと愛しているのだから、神様の愛はどれほど大きなものでしょう。
双子の生と死を通して、神様は私に何を語りたかったのでしょうか。
私は、「キリストの十字架で流された血と捧げられた体による罪の赦しと原罪の解放のゆえに、体が辛くて痛いかもしれないけど、生きなさい」と言われているような気がしてなりません。
私は、病気に負けたくない。
まだ、なんとしてでも生きたい。
守りたい人がいる。
だからこそ、無力な私はキリストを愛し、人々に仕えるために召されていると思っています。
べてるの家の「癒されたくない」という本があります。
この本の最初には、アウシュビッツで家族の中で唯一生き残った少年の話が書かれていました。
その少年はドイツが敗戦した時に、天を見上げて亡くなった家族に向けて決意したそうです。
「家族を置いて僕は幸せにはならないからね」。
とても目から鱗が出ました。
私は幸せになろうとしていました。
幸せを追い求めていました。
私は自分の双子に向けて何を考えればいいのだろうと思わされました。
母は私の幸せを願っています。
それが、どんな形であろうと、「私が幸せに生きてくれたら、それでいい」。それが母の考え方です。
ですが、天の御国にいる人と地上にいる人の気持ちは違うかもしれません。
私には何も分かりません。
だからこそ、私は天に昇った双子にこう答えようと思います。
「私と共に神様に体を造られた愛する柚莉ちゃん、必ずあなたに会いに行くから待っててね」。
私はこの世に生まれました。
「柚莉」はこの世に生まれませんでした。
私が生きる理由、それを突き詰めるならば、「生まれたから生きる」ということでしょうか。
それは、決して消極的な理由ではなく、母が涙の内に私を産んで、私の「贖いの代価」がキリストによって支払われたから、生きるのです。
私の罪は赦されているから、キリストが私に、血まみれで伏している私に、「生きよ」と言ってくださるから、「何としてでも生きてやる」と思えるのです。
[エゼキエル書 16:6]
わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まったあなたに「生きよ」と言い、血に染まったあなたに、繰り返して「生きよ」と言った。
だから、私はイエス様の後を追いかけています。
その先に、天の御国があることを信じて。
追記
この証詞に足りないところがあるという司牧を受けました。
それは、天国に行くのは、イエス様に会うためだと。人に会うためだと死者崇拝になるということです。
私たちはどこまでもイエス・キリストを追い求める者でなければならないと教えていただきました。
今の自分は祈りもできず、人に祈ってもらうことしか出来ない人間です。
だから諦めるのではなく、イエス様に「あわれんでください」と一言祈り続け、聖書を読んで祈ることができる毎日であり続けたいです。