祈れない時に祈るロザリオの祈り
今回はロザリオが無い時の祈りと、ロザリオを使って祈った時の私の心の違いから、ロザリオの祈りの勧めの話を展開していこうと思います。
まず、プロテスタントの多くの教派がロザリオの祈りの教えがないことは、誰もが知っている事実だと思います。
ですが、それが悪いというのではなく、プロテスタントの多くは自由な言葉でお祈りをしたり、聖書から祈ること、祈祷会を教会で開いてお祈りをしています。
特に、自由に神様と交わってお祈りすることは、プロテスタントの強いところだと私は感じています。
ただ、私の場合は精神障害もあり、心の症状が出て、周囲の人たちを攻撃したくなる「肉の自分」が現れた時に、罪を感じて祈ることは大変困難です。
ここで、私が自分自身が肉の状態になったと思う基準を聖書から提示したいと思います。
ガラテヤ書5章19-23節では、肉のわざと御霊の実を使徒パウロが言葉化しています。
私はこのみことばを暗誦しているわけではありませんが、これら全体を見た時に、「自分から出る悪い感情は全て」、肉であると認識しました。
私の場合ですが、心の症状が出た時に沸き立ってしまうのが、ここで当てはめると「争い、そねみ、憤り」になると考えています。
そして、そういった悪い感情が出た時に、最近になってようやく病識を持ち始めることが出来るようになった私(と言っても、嫌な感情を持ったら症状が出ていると考えているだけですが)は、出てきた感情を必死でイエス様に委ねようとするのです。
しかしながら、自分の感情を自由に祈っても、イエス様に委ねられない私の罪があるのです。
祈っても祈っても、嫌な気持ちが溢れ続けます。
そしてまた、イエス様に頼ろうと祈っても消えない悪い感情に悩み苦しむのです。
少し頭を冷やして考えると、その時の自分は自分で頑張って、苦しみをイエス様に委ねようと祈ったとか、委ねられない自分に罪意識を持っているとか、そういうのがダメなんだと自分を良心の呵責から裁き、罪に罪を重ねているようなサイクルを繰り返していたのではないかと思いました。
私と同様に、そのような悩みを持っている人もいると信じて、この記事を書いています。
そのような、堂々巡りの状況に陥った時、ロザリオを手にして、定型文の祈りと自分の自由な祈りを混ぜ合わせて祈ると、私は祈りの世界に潜り込む(集中する)ことが出来るようになり、ようやく、祈れない、主に委ねられない、という意識が霧消していくのです。
ですが、そのような体験があったとしても、聖書に次のように書いてあるからロザリオの祈りは必要がないのではないか?と思うかもしれません。
私はこの聖書の言葉を否定するつもりはなく、聖霊がうめく祈りも大切だし、言葉を以って祈る祈りも大切です。
ですから、使徒パウロは(異言を用いた)霊の祈りと、言葉を用いた知性の祈りについて、このように語っているのです。
私たちの教会では、徹底的に祈ったと感じるまで祈りきるということを教えられています。
しかしながら、私たちはあまりに弱すぎて、祈りを聞かれている感覚がないとか、祈りに応えられているか、霊が祈るというのが分からないとか、祈った満足感がないという、漠然とした不安を、時に感じることがあると思います。
記事を書いている私も、祈って不安が取り除かれることは、病気の症状ゆえに難しいです。
だからこそ、ロザリオを使って数十分でも全力で集中して祈ると、「祈れた!」という実感を持つことが出来ます。
私は経験者として、祈れたか分からない不安を不安のままにしておくのではなく、きちんと祈りに集中して、神様と交わることを勧めたいです。
ロザリオの祈りは祈り方や言葉を自由に組み替えることが出来ます。
例えば、聖書の黙想を自由祈祷に変えることも出来ます。
アヴェ・マリアの祈りに抵抗があるならば、ルカの福音書の取税人の祈りである、「主イエス・キリスト、罪人の私をあわれんでください」という言葉を繰り返して祈ることも出来ます。
私は、弱い人が祈りに導かれ、主に心を向けていってほしいです。
主を信じて、「ロザリオの祈りには本当に力があるのか?」と確かめようとして、ロザリオの祈りを実践する人たちが、祈りの甘美な蜜を味わえるようにと願います。