見出し画像

2024年9月11日 聖書講解説教(ガラテヤ書1章18-24節)の感想② ー聖書本文(孤立しない信仰)ー

当記事は「聖書講解説教(ガラテヤ書1章18-24節)の感想②の続きです。
それぞれ独立した記事ではありますが、下記の記事を読んだ上で、この記事を読むことをオススメします。

今日はガラテヤ書1章18-24節、特に18-19節からの講解説教でした。
説教題は「それから三年後①———キリストにある友」です。
そこから語られたことのメモの一部をまとめて、感想を折り合わせて書いていきます。

説教音源は以下のプラットフォームにて公開されています。

⬇️

Stand.fm

Apple Podcast


本日語られたガラテヤ書1章18-19節の本文を引用します。

"それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。
しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒たちにはだれにも会いませんでした。"

ガラテヤ人への手紙 1章18~19節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

パウロがダマスコから出て、エルサレム教会に上ったのはエルサレムにいるキリスト者たちとの交わりのためでした。
教会で福音の真髄において、キリスト者たちと語り合いたいという思いからエルサレムへと向かいました。
それまでに、ダマスコ宣教でパウロはユダヤ人たちから迫害を受けたこともあり、最初の宣教地であるダマスコから離れたのです。

"かなりの日数がたち、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、
彼らの陰謀はサウロの知るところとなった。彼らはサウロを殺そうと、昼も夜も町の門を見張っていた。
そこで、彼の弟子たちは夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした。
エルサレムに着いて、サウロは弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みな、彼が弟子であるとは信じず、彼を恐れていた。
しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した。
サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の御名によって大胆に語った。"

使徒の働き 9章23~28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

エルサレムにやってきたサウロのことを、キリストの弟子たちは信じないどころか、恐れていました。

福音による交わりがなされた時に、取り除かなければいけないものは、ここで弟子たちがサウロに対して抱いていた「恐怖」です。
サウロという相手の証を聞く前に、「この者は〜だ」と決めつけてかかることが、交わりの妨げになります。

これは、使徒の働きの話なので、初代教会から、それもエルサレムでレッテル貼りというものは行われていました。

相手を恐れているからこそ、私たちは相手に対して批判をするのです。
気概や勇気のない人たちがレッテルを貼ったり、憎悪したりします。
それは、現代のキリスト者も教派主義という形でお互いのことを信じないことで継承してます。

サウロは、バルナバという人を通して、キリストを見たことや宣教の様子を語りました。

私たちは誰でも、相手に対する恐怖や批判、不信頼を持っています。
そのような、サウロが弟子たちに信頼されなかったような時に一番祈っていいのは、仲裁者や友の存在が現れることです。

使徒の働き9章26節でサウロが「仲間に入ろう」とした、この言葉はコローメーというギリシャ語原文で、「へばりついて離れない、くっついていく」という強い意味を持ちます。
使徒パウロは決して孤立していた者ではありませんでした。
この時は、バルナバという友と一緒にいました。

信仰がはっきりしているからこそ、私たちはお互いにキリストを持っている者としての交わりを持つことができます。
どこかでキリスト以外のものを求めている歯切れの悪い信仰を持っている者は、キリストにあって独立出来ないのです。

また、交わりをしようとしても、相手から関係を拒絶され、交わりを拒まれることもあります。
そのような時には、交わりが出来ないからと自分だけの責任にする必要はありません。

そしてそのような、万事休すの状態になった時に、信仰の友が現れるかもしれません。
パウロの場合はバルナバでした。バルナバだけは人の噂話ではなく、パウロの語った事実を持ってして、使徒たちにパウロを紹介しました。

使徒の働き9章27節の、バルナバはサウロを「引き受けて」とは、エピ・ラムバノーという言葉で、「味方になる、しっかり捕まえて助ける」という意味です。

例え、友がいなくて、自分自身が恐れられていたとしても、差別されていじめられたとしても、キリストだけは見捨てずに味方になってくださる御方です。

"キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。"

使徒の働き 4章36~37節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

慰めの子と呼ばれたバルナバの「慰め」という言葉はパラクリシスで「慰め、励まし」という意味です。バルナバは聖霊に満たされた人でした。

聖霊とは慣例として助け主と呼ばれますが、私たちを慰めてくださる御方です。
ヨハネの福音書に登場するパラクリトスは「力強い味方、同情を持って弁明してくれる方、人を断罪するものに向かって罪人の側に立って弁護してくださる方」という意味です。

聖霊に満たされたバルナバは慰めという聖霊の力を持っており、これによってキリストにある兄弟姉妹たちに神の力を行使していたのです。

"しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。"

ヨハネの福音書 14章26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

この説教のシリーズの聖書本文は、使徒の働きとリンクしており、参照しつつ読むと、どのような流れでパウロはキリスト者たちの群れに加わったのかが分かりやすいです。

今回はバルナバというキリストにある友を通してパウロはエルサレムの使徒たちに受け入れられました。

私は救われた時、周りの人たちが皆、未信者で洗礼を受けようとしたら迫害を受けて、相手に嘘をついてまで洗礼を受けた過去があり、信仰生活も普段は一人でした。
だからこそ、孤立しない信仰というものにグッときます。

LINEのような顔出しで無料通話を通して、マンツーマンで学びをしたり、礼拝には必ず出て交わりに参加したり、まさしくパウロがエルサレムの弟子たちの仲間に入ろうとしたように、教会の交わり・共同体にへばりつくようにしてついていきました。

最初は交わりが苦手で、説教から学んだことを共有することができないほどでした。

みことばを聞く訓練の中で、何度も何度も、説教がきちんと聞けていないことを指摘されましたが、特にその指摘の言葉を跳ね除けずに受け入れること、つまり、自分がみことばを全然理解出来ていなかったことを他者の指摘を通して認めることが、私にとって一番きつかったことです。

自分の足りなさを他者から面と向かって言われ、それを飲み込むことはとても厳しいことです。
ですが、自分を叱ってくれる信頼関係のある相手を友として、その人たちと信仰の道を一緒に歩んだ時、私は未信者に囲まれた環境にいても孤独ではなかったし、相手との交わりを心待ちにすることが出来ました。

そして、交わりの中で慰めと励ましを得ていきました。

だからこそ、パウロがアラビアを経た後、孤立した信仰者ではなかったように、私たちも信頼して腹を割って話せる兄弟姉妹たちと交わっていく必要があると思います。

いいなと思ったら応援しよう!