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汚れた口から賛美が出るのか? ー私たちがきよめられることー

私たちは当たり前のように主を賛美しているが、福音書でその主ご自身が、「口から出るものが人を汚す」と仰せになっています。

"イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」"

マタイの福音書 15章10~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

しかし、汚れた唇から賛美が出ようものでしょうか?
なぜ、私たちは「汚れた口から主への賛美ができるのか?」と考えることは、決して無意味なことではないと思います。

まず、ヤコブ書にはこのように書かれています。

"しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。
私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。
同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。"

ヤコブの手紙 3章8~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

この箇所は、主の語られたことを実践的に書かれた箇所だと考えます。
私たち人間は、口で主の栄光をたたえながら、その口から罪を犯すのです。

私たちは主イエスを通して(Through)、賛美を捧げられるようになります。

"それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。"

ヘブル人への手紙 13章15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

では、ここの冒頭の「それなら」という言葉が、何の条件を満たした上での「それなら」なのかをはっきりさせておきます。

"動物の血は、罪のきよめのささげ物として、大祭司によって聖所の中に持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるのです。
それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。"

ヘブル人への手紙 13章11~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ここで分かるのは、前述の条件というものが、主イエス・キリストが私たち人間が聖なるものとされるために、罪のきよめの捧げ物として苦しみを受けられたことであるということです。

つまり、キリストを通してという言葉も、キリストの十字架のご受難を通してという意味だと読めます。

私たちの罪の捧げ物としての主イエス・キリストの受難があってこそ、私たちはきよめられるのです。

「賛美のささげ物」は聖なるものとなっているものが捧げられるのは、レビ記を読むと分かります。

"あなたがたが、かの地に入り、どんな果樹を植えても、その実はまだ禁断のものと見なさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって禁断のものであり、食べてはならない。
四年目に、その実はすべて聖なるものとなり、主への賛美のささげ物となる
五年目に、あなたがたはその実を食べることができる。あなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、主である。"

レビ記 19章23~25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

では、私たちはキリストを通して、何によって聖とされるのでしょうか?

ただ、キリストを信じて何もしないでいる、十字架を信じるだけで何もしないでいることに、留まって良いのでしょうか?

そうでないのは、明らかです。

"私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。"

コリント人への手紙 第一 10章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

聖餐式でキリストの血と体にあずかることが、私たちが神をほめたたえる賛美の杯です。

この引用箇所は、偶像礼拝を避けるように教えられている文脈の中で語られています。

私たちはキリストを信じて、神を知れば知るほど、信仰を通してあらかじめ備えられた良い行動(この場合は聖餐式)にあずかりたくなっていくのです。

"この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。"

エペソ人への手紙 2章8~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

使徒パウロはキリストの血にあずかりながら、悪霊の食卓につく、つまり他の偶像に仕えることは出来ないと言っています。

"あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。"

コリント人への手紙 第一 10章21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

そのように考えると、聖餐式にあずかること、———ただあずかるだけではなく、聖餐式を通して主と一致し、私たちが聖なるものとなることを知って(信じて)あずかること———が大切なのだと思うはずです。

そして、聖餐式で信仰を持ってキリストの血と体にあずかることこそが、私たちがきよくされ、罪から離れることに繋がるでしょう。

このようにして、私たちが聖餐式にあずかって聖なるものとされたら、私たちが主に賛美する時、その賛美は汚れた口から出るものではない、純粋な神への賛美となるという結論に至ります。

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