私たちは当たり前のように主を賛美しているが、福音書でその主ご自身が、「口から出るものが人を汚す」と仰せになっています。
しかし、汚れた唇から賛美が出ようものでしょうか?
なぜ、私たちは「汚れた口から主への賛美ができるのか?」と考えることは、決して無意味なことではないと思います。
まず、ヤコブ書にはこのように書かれています。
この箇所は、主の語られたことを実践的に書かれた箇所だと考えます。
私たち人間は、口で主の栄光をたたえながら、その口から罪を犯すのです。
私たちは主イエスを通して(Through)、賛美を捧げられるようになります。
では、ここの冒頭の「それなら」という言葉が、何の条件を満たした上での「それなら」なのかをはっきりさせておきます。
ここで分かるのは、前述の条件というものが、主イエス・キリストが私たち人間が聖なるものとされるために、罪のきよめの捧げ物として苦しみを受けられたことであるということです。
つまり、キリストを通してという言葉も、キリストの十字架のご受難を通してという意味だと読めます。
私たちの罪の捧げ物としての主イエス・キリストの受難があってこそ、私たちはきよめられるのです。
「賛美のささげ物」は聖なるものとなっているものが捧げられるのは、レビ記を読むと分かります。
では、私たちはキリストを通して、何によって聖とされるのでしょうか?
ただ、キリストを信じて何もしないでいる、十字架を信じるだけで何もしないでいることに、留まって良いのでしょうか?
そうでないのは、明らかです。
聖餐式でキリストの血と体にあずかることが、私たちが神をほめたたえる賛美の杯です。
この引用箇所は、偶像礼拝を避けるように教えられている文脈の中で語られています。
私たちはキリストを信じて、神を知れば知るほど、信仰を通してあらかじめ備えられた良い行動(この場合は聖餐式)にあずかりたくなっていくのです。
使徒パウロはキリストの血にあずかりながら、悪霊の食卓につく、つまり他の偶像に仕えることは出来ないと言っています。
そのように考えると、聖餐式にあずかること、———ただあずかるだけではなく、聖餐式を通して主と一致し、私たちが聖なるものとなることを知って(信じて)あずかること———が大切なのだと思うはずです。
そして、聖餐式で信仰を持ってキリストの血と体にあずかることこそが、私たちがきよくされ、罪から離れることに繋がるでしょう。
このようにして、私たちが聖餐式にあずかって聖なるものとされたら、私たちが主に賛美する時、その賛美は汚れた口から出るものではない、純粋な神への賛美となるという結論に至ります。