2024年9月1日 主日礼拝説教(ヘブル書5章12節)の感想③ ー聖書本文ー
当記事は「主日礼拝説教の感想②」の続きです。
それぞれ独立した記事ではありますが、下記の記事を読んだ上で、この記事を読むことをオススメします。
今日はヘブル書5章11-14節、特に12節からの講解説教でした。
説教題は「信仰的理解力②———神が告げたことばの初歩」です。
そこから語られたことのメモの一部をまとめて、感想を折り合わせて書いていきます。
説教音源は以下のプラットフォームにて公開されています。
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本日語られたヘブル書5章12節の本文を引用します。
ここでは、信仰歴の長さと信仰について書かれています。
この本文に書かれているような、信仰歴では教師になっててもおかしくないのに、信仰の初歩をもう一度教えてもらう必要のあるキリスト者は多く、教職者や、聖職者にも見られることがあるようです。
ですが、信仰歴も大事であることはパウロが語っています。
信仰歴が長い方々については、次のように言われることもあります。
これは、「年配の人に対して、若い人を叱るように叱ってはいけないし、父母と話すように話しなさい」という、人間関係の原則を書いています。
しかしながら、ヨブによれば、年配者だからといって、キリストに通じているかは分かりません。
使徒パウロは若輩者のテモテに対して諭しています。
大切なのは、信仰歴の長さではなく、信仰の中身です。
聖書の話だけではなく、福音の話が出来るかどうかです。
実際に、キリストの神秘に通じている人と話している時と、そうでない人と話している時とでは違いを感じます。
私も「キリストの愛」を全身で味わった人の話を聞く時は、心が落ち着いていることが多いです。
イエス・キリストが自分とどのような関係があるかを語れるかどうかが本当に大事なことです。
キリストについての初歩の教えとは、次の五つです。
①死んだ行いからの回心
②神に対する信仰
③きよめの洗いについての教え→洗礼のこと
④手を置く儀式→手を置いて祈ること
⑤死者の復活と永遠のさばき
これらが、神の告げたことばの初歩です。
信仰歴を重ねながらきちんと知っていき、他の人々に教えることが出来るようになることが理想的です。
しかし、私たちには固い食物ではなく、乳が必要になっていることを、ヘブル書の著者は語っています。
これは、私たちにダメ出しをしているのではなく、私たちを「信仰の初歩に立ち返らせる励まし」です。
①固い食物とは?
信仰の神秘のことで、これには聞き分ける心が必要になります。
②乳とは?
信仰の基礎のことです。
生まれたての赤ちゃんのように、神様からの霊の乳を、聖書を読むことをペテロは勧めています。
キリスト者になるために、私たちは聖書を読みたくて読みたくて仕方がなく、キリスト者として成長して、大人になって、父たち、母たちになるために、私たちは聖書を読むのです。
そして、聖書は自分一人だけで読むのではなく、教えてもらう人と共に読んでいきたいです。
使徒パウロはコリント教会に対して、キリストにある幼子に語るようにしなければならない時がありました。
キリストにある幼子であろうが、そうでなかろうが、使徒パウロや使徒ペテロから学ぶことは、「無理して背伸びをしないこと」、かといって、「卑屈になる必要もない」ことです。
だから、私たちは正しすぎても、悪すぎてもならないと言われているのです。
私は自分自身の信仰歴の長さを意識したことはあまりありませんでしたが、いつもヘブル書の5章12節を読んだ時に、自分の足りなさを言われているようで、ショボンとなっていました。
正直に言って、それに対して言い訳したい気持ちもありました。
私のイメージでは、ヘブル書は厳しい印象がありましたが、それは、ヘブル書を文章そのまま読んだから、そのように感じただけで、聖書の他の箇所を読んだら、逆に励まされているのだと教えられました。
使徒パウロもペテロも、「あなたは幼子だからダメなんだ」と一言も言っておらず、「あなたはまだ幼子なんだよ」と諭した上で、「信仰の初歩に立ち返って、みことばに親しもうね」と言っていると分かって、なんて優しいメッセージなんだと、今回の説教を聞いて思いました。
キリスト者として成長出来ないことに、落ち込む必要はなく、言い訳する必要もなく、無理して立派に振る舞おうとする必要もなく、大切なことは純粋に聖書を読んで、説教を聞いて、みことばを受け入れていくことだと学びました。
自分自身の時間は限られています。
その時間を無駄にしたくない思いが私にはあります。
そのためにも、こうして説教の感想をまとめて自分の中で消化するだけでなく、何回も聖書を読んで、その度に新しい発見をしていきたい、それが自分にとって有益なことだと思いました。