義しい神と愛なる神
タイトルを読んでなんだこの言葉は!と思う人がいるかもしれません。
私はこの言葉を初めて見た時、読み方が分からなくてGoogleに頼りました。
私の知っている範囲で、この言葉は岩波文庫から出版されている『キリスト者の自由』(ルター著)に登場する言葉です。
これは義(ただ)しいと読むようです。
わざわざ国語辞典のサイトで調べました。
どういう意味かというと、
つまり、義しいとは、誠実とかそのような意味になるそうです。
義しい神とは、誠実で自らを偽らないお方であると同義だと言えます。
ここからが本題ですが、神は義なる神(義しい神)であり、愛なる神でもあります。
旧約聖書では、イスラエルの民が罪を犯した時に、裁かれていたお方でもありました。
しかし、新約聖書では、罪人であり律法を守れなかったイスラエルの民、そして異邦人の私たちの救いのために、子であるキリストを十字架につけた愛の神です。
神は人を愛しています。
しかし、始祖であるアダムとエバが原罪を犯してしまったために、愛なる神は「義」で人を裁かなければなりませんでした。
それが、エデンの園から人が追い出された出来事です。
しかし、神様は人に何も持たせずに追い出すことはなさりませんでした。
エデンの園から出る時にアダムとエバに着せられた衣は「皮」で出来ています。
つまり、その皮を剥ぎ取られた動物がいるというわけです。
そこに、キリストの十字架の予型があります。
キリストの犠牲を表す皮の衣に覆われたアダムとエバは、罪を十字架によって覆われた人間を表すのです。そこに神の愛があります。(竪琴音色キリスト教会の説教より)。
先述の通り、神は愛と義しさを持つ神です。
ですから、旧約聖書のある部分を取り上げて、人を裁いて殺して「怖い神」と考えることも、新約聖書の時代のキリストの救いだけを見て、「愛なる神」を強調することも、どちらか片方に神観が寄ると、どうなるでしょう?
怖い神を強調すると、神は裁かれるお方であり、罪人である私ももちろん裁かれる。だから、私は救われてないかもしれないと、罪意識を深めることになるかもしれません。
極端な話になるとこうなると思います。
実際に、旧約聖書を読むと己が罪人だと振り返り、段々罪意識が強まっていったと、でもそれは恵みの出来事だと伝道者がメッセージで自分の体験を語っていた時があります。
この御言葉はいけにえに関する律法の言葉ですが、神が愛なる神で、自分がキリストによって赦されていると分かっていない人は、このような律法の言葉が恐ろしいもののように感じるのです。
逆に、愛なる神を強調した場合、罪が分からなくなると言えるでしょう。
「私はキリストに救われて恵みをいただいた。だから、罪を犯してもいいんだ。神は私を愛されているから」。
これも極端な話ではありますが、ローマ人への手紙でパウロがこのような忠告をしているので、実際にこのような人が存在していたという証拠でしょう。
罪が分からなくなった結果の刈り取りについて、私たちは次のローマ書の言葉の意味を考えなければなりません。
ここの罪の「報酬」の意味は、「賃金」という意味です。つまり、私たちは「罪」という職に邁進してキリストに向かわなかった結果、死を刈り取ることになります。
ですが、キリストを信じると、神の「賜物」が与えられます。賜物とは無償で与えられるものです。神の恵みとも読み替えられますが、神はキリストを信じる限りにおいて、タダで永遠のいのちを与えられると考えられます。
神を畏れ、キリストを信じて神の愛に与る人には同じローマ書で次のような言葉が与えられるのです。
ですから、神の二面性をバランスを取らずに見てしまう見方はとても危険なのです。
以前、キリスト者の二項対立的思考について、書きました。この場合も、「義しい神」と「愛なる神」の二つが対立しているのではなく、どちらの要素も神の中には存在しているのです。
ですから、神は人々の救いを望んでイエス様を送られました。イザヤ書にはそれが預言されています。
神は罪を犯して、神から離れてしまった人類との和解を望み、人類が神の形を回復させるために、それを実現するために罪の贖いの羊としてキリストを遣わしました。
ですから、神は優しくもあり、厳しいお方でもあるのです。
「義しい神」とは、神の義によって正しく人を裁かれる神を表し、「愛なる神」とは、神の底なしの愛によって子なるキリストを十字架につけた神を表します。
ですから、この場合も、「裁く神」と「愛の神」のどっちもを神様は持っておられるのです。