2024年9月1日 主日礼拝説教(ヘブル書5章12節)の感想② ー共同識別ー
当記事は「主日礼拝説教の感想①」の続きです。
それぞれ独立した記事ではありますが、下記の記事を読んだ上で、この記事を読むことをオススメします。
今日はヘブル書5章11-14節、特に12節からの講解説教でした。
説教題は「信仰的理解力②———神が告げたことばの初歩」です。
そこから語られたことのメモの一部をまとめて、感想を折り合わせて書いていきます。
説教音源は以下のプラットフォームにて公開されています。
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本日語られたヘブル書5章12節の本文を引用します。
今回は、キリスト信仰を自己検証する際に必要な「共同識別」のことを書いていきます。
①聖書の言葉を調べる
新約聖書には、教えられたことが本当のことか「聖書の言葉を調べた人々」が登場します。
引用箇所に登場するベレアの人々は、パウロとシラスが語った説教の内容を「受け入れて」、本当かどうかを調べました。
受け入れた上で、真理に到達するために聖書を調べました。
この「調べた」という言葉は、「アナクリノー」という「吟味する、調査する、念入りに調べる」という意味のギリシャ語です。
ベレアの人々は信仰の真理を知りたい思いで、聖書を読むだけでなく、パウロたちが語ったことを「念入りに調べた」のです。
ここに、私たちが倣うべき、キリスト者としての模範があると私は思います。
説教の言葉、奉仕者たちが語る言葉を鵜呑みにせず、本当のことかどうかを聖書で調べること、また、一つの翻訳の聖書だけでなく、複数の翻訳の聖書を調べることは、福音理解を深めるために必要だと思います。
だからこそ、新約聖書ではギリシャ語原文の釈義が必要になると考えています。
旧約聖書では、ヘブライ語原文と七十人訳聖書のどちらを重視するかは人それぞれですので、敢えて語るつもりはありません。
②説教から福音を聞き、神の力と知恵にしているか
説教を聞いている時に、眠くなった体験のある人は多いと思います。
かく言う私も、洗礼前はいつも説教中に寝ていました。単純に、何を語っているのかが分からなかったからです。
説教がなぜ眠くなるのか?
それは、私たち聴衆の心に覆いがかかり、聞くことにも私たちの罪が及んでいるからです。
もちろん、説教中に心が平安に満たされ、疲れた心身が安心して眠ることはあります。
それはそれで、良いことです。
私たちは信仰が空しくならないために、説教の中でキリストの十字架の死と復活を説かれなければなりません。
復活はキリストの十字架を前提にして語られています。
復活が分からないキリスト者ほど、希望を見出せずにこの世に埋没してしまいかねません。
十字架の死で信仰が終わってしまうと、キリストが復活したことで、私たちもキリストと死ぬと共に新しいいのちに生きていることが分からないからです。
SNSで信仰的な発言をした後に、自分はダメだと言っている人を見かけることがあります。
しかし、その人が悪いわけではなく、その人の所属する教会から、福音を伝えられていない、つまり、神の愛を教えられない教会に責任があります。
ですから、教会で語られるみことばで愛を受け取れないことほど悲惨なことはありません。
③神のことばを共同識別しているか
私たちの教会では、よく言われるのが、「みことばを与えられたら、自己検証した後に、みんなに共有してね」ということです。
なぜ、自己検証だけではダメなのか?
それは、自分だけの検証では、偏った理解から自己義認に至って、他者を批判するかもしれないからです。
上記の聖書引用箇所では、「あなたがたは」と言われています。
これは、「互いに」ということです。
次に、「自分自身を『試し』」の、「試す」という言葉は、「ピラゾー」で「神が試練や困難などで私たちを試す、私たちの信仰を試す」という意味です。
信仰は教会生活や人間関係で試されます。
神様は私たちの信仰を確かめるために、検証なさるのです。
一つは自己検証、そして、共同識別、それなら神様ご自身から必ず検証され、試されます。
以下に、神様の試練について書かれた聖書箇所を引用します。
1. 使徒ペテロの証言
2. 主の兄弟ヤコブの証言
試練は教会において、神の器として有益なものとなること、つまり、キリストに似た者となっていくことに必要なものです。
神様から特別に名前を呼ばれた私たちが、全てキリストの御心のままに願うように導かれていきます。
キリストを信じる教会は、説教と福音宣教によって調べられます。
十字架信仰を保ち、神様が試されることを忍耐し、喜ぶことを主の兄弟ヤコブは命じています(ヤコブ書の引用より)。
私たちは忍耐が出来なくて喜ぶことが出来ないかもしれません。
ですが、それで嘆く必要はありません。
試練で忍耐が出来ないほど、私たちは弱く、神様が必要な人間で、キリストについて行かなければならないということを、試練を通して学ぶことが出来ます。
むしろ、ダメな人間だからキリストに名を呼ばれたのではないでしょうか?
ヘブル書の本文とは別の箇所では、親から躾を受けるように神様からも躾を受けることが書かれています。
私は今になって、上の引用のヘブル書12章5-11節のみことばが身に沁みます。
確かに血の繋がった親からは理由が分からないまま怒られたり、親の目に良いと思うことを教えられてきました。
しかし、神様から教えられることは、「もっと自分を大切にしようね(要約)」というような励ましから、「人を裁くあなたは何者なんだ」という叱りまで、聖書で語られていることに基づいているのです。
これらを教えられるプロセスも大切で、私は過去の嫌なことを思い出したり、病気の症状が出たりした時に、自分の罪が現れやすく、神様から教えられることが多いです。
ですが、いつも教会の人に言われるのは、「私(教会の人)は過去の嫌なことをしてきた人とは別人だよ」「症状が出たら、自分も傷付くことになるよ」ということです。
如何に、自分の視野が狭く、病識を持つことが大変かを教えられます。
また、今のSNSは人間の負の感情に満たされた投稿が多く、そういったものに影響されやすい私はSNSで気を抜くことが難しくなりました。
特に多いのは、「嘲笑」といった類のもので、見ていてあまり気分は良くありません。
最近の私は台風の影響で倒れていることも多く、SNSをよく見ていましたが、体調を早く戻して、自分の心を安定させたいと願っています。
次回は、ヘブル書本文の内容に触れていきたいと思います。
⬇️次回の記事⬇️