2024年9月4日 聖書講解説教(ガラテヤ書1章15-17節)の感想
今日はガラテヤ書1章15-17節からの講解説教でした。
説教題は「神の砂漠」です。
そこから語られたことのメモの一部をまとめて、感想を折り合わせて書いていきます。
説教音源は以下のプラットフォームにて公開されています。
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本日語られたガラテヤ書1章15-17節の本文を引用します。
この引用箇所の「選び出し」という言葉は、ギリシャ語原文では、「分離する、区別する」という意味となります。
ここだけ読んだら、私は選ばれし者なのか?と疑問に思うこともあるかもしれませんが、決してそうではなくて、神様が私たちのことを見て、私たちがお母さんのお腹の中にいる時から、神様に取り置かれた存在なのです。
同じような言葉が、旧約聖書のエレミヤ書にもあります。
しかしながら、エレミヤのような預言者やパウロのような使徒たちだけが特別に選ばれた人ではなく、キリストを信じる私たち全員が神様に呼び出された存在なのです。
次に、恵みを「もって」という言葉は、英語の「through」と同じ意味で、日本語にすると、「〜を通して」という意味の言葉になります。
預言者や使徒、聖職者・教職者、奉仕者、そして、社会的に成功しているような人さえも、神の恵みを通して信仰を受け取っているのです。
主はどの立場の人が偉いという外見的なことを見るのではなく、内面の信仰を見ておられます。
「自分たちの召しのことを考えてみなさい」とは、「救われた時のことを思い出してみなさい」と言うこともできます。
使徒パウロが神は無に等しい者を選ばれたと言っている通り、キリスト者に聖と俗はないのです。
みんなが神様にとっては尊い一人ひとりなんだよ、とパウロはここで教えています。
私たちにとって試練とは、苦しいものだと思います。
ですが、試練に遭う度にイエス様に頼れない次元に到達することが、神様の恵みによる救いだと教えられました。
試練が苦しいからこそ、交わりの中で祈り合い、支え合うことができるのです。
試練を通して互いに与え合う交わりを体験し、キリストと出会った人は、キリストのことを考えずにはいられないとも、この説教の中で語られていました。
本当に神の愛に出会ったら、全てを捨てて、命を賭けても、献身して主の御心に叶うことを行なっていくということです。
私たちは無に等しい者だからこそ、他人を裁くことも、自分自身を責めることもせずに、神の愛を確かにしていけるのです。
長くなったので、もう一度聖書本文を引用します。
では、世では無価値に等しかった私たちを愛している神様は使徒パウロに何をしたかというと、主は、パウロに復活のキリストを見せたのです。
その啓示がパウロのうちに現れたのです。
この本文での「私のうちに」とは、「私の中に」という直訳です。
聖霊の体験によって、パウロは復活のキリストを見たのです。
使徒パウロ(聖書ではサウロと呼ばれている頃)の召命については使徒の働き(または、使徒言行録)の9章3-20節に書かれています。
私たち一人ひとりは、神様に全くのオリジナルとして造られました。
そこに、聖職者も教職者も信徒の区別はありません。
使徒パウロは、「血肉に相談せず〜」と言っています。この血肉とは人間のことで、言い換えるならば、「人間に相談しなかった」ということになります。
しかし、これはパウロが孤立主義を語っているわけではありません。
では、パウロは復活のキリストを見た後、人間に相談せず、何をしていたかというと、「アラビアに出て行った」のです。
ここでのアラビアは、砂漠を指します。
私たちの信仰生活には時に、アラビア(砂漠)が必要になっていくことがあります。
突然、試練を受けて、砂漠のようなところに放り出されたような感覚に陥ることもあるかもしれません。
ですが、パウロはアラビアへ行った後に、ダマスコに戻っています。
私たちは神様との関係において、神様の前に一人立つ場面が出て来ることもあります。
そうであっても、絶えず神様を求めていきたいと私は思いました。
説教を聞いている時に、時々問いかけられるのが、私は救われる前はどんな人間だったかということです。
それを問われる度に、過去の自分を思い出しますが、気持ち悪くなってくるほど過去の私は酷い人間でした。
病気の症状に振り回されて周りの人間を傷付けてもなんとも思わず、社会で働くこともできないのに偉そうで、変な正義を振りかざし、ネット社会に毒されていました。
しかし、私は家族の中で一人だけ、イエス様を信じた人間でした。
本当に無に等しいというよりも、最悪な人間を神様は選ばれたと思います。
これは自己卑下ではなく事実で、信仰を長く続けていればいるほど、過去の自分が思い出したくないほど嫌になってきているのです。
ですが、イエス様はそんな私を十字架で贖ってくださったからこそ、後悔があっても前を向いて生きていけるのです。
過去の時間は無駄にはならないと信じます。
また、説教中において、キリストと出会うことを語られたときに、自分の胸が矢で貫かれた感覚を覚えました。なぜか分からないけれども、涙が出てくるのです。
それほど、自分はキリストに出会いたいと願っているのかもしれません。
でも、自分の信仰は立派なものではなく、福音書でイエス様が例えられた「からし種」というのがピッタリきます。
なぜかというと、私自身が精神障害の攻撃性を人に向けてしまい、その後に相手に対して反省して、「嫌なことを言ってごめんね」と謝ることができて喜んでいるレベルの人間だからです。
それすらできていなかったからこそ、成長していけばいくほど、ふと振り返ってみて過去の私は最悪だったという思いが強くなるのです。
最近、また日記を書くようにしています。商品名が「しあわせ日記」という日記なのですが、その日に起こったことを少し書いて、最後に一文、一日起きた良い出来事から明日の目標を書いています。
日記を読み返した時に、自分の変化に気付いたりしてみたいものです。
今、日記を書いていて思うのは、案外良い一日を過ごせているのではないかなと思うのです。
いつも自分を裁いて責めてしまいがちな私ですが、心理的な解放を経て、イエス様の足元で落ち着きたいです。