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2024年3月31日 復活の主日の講解説教の感想
説教題「すべてのものを造られたのは神」
ヘブル人への手紙3章4節
新改訳2017
以下は、説教箇所です。
[へブル人への手紙 3:4]
家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。
本文から、家は単数形のギリシャ語が使われていて、これは教会のことを表します。
「すべてのものを造られたのは神」という言葉から、この箇所は世界の創造に関して言及しているとも考えられます。
今回は神の家(=教会)のことですが、この中で神の力で造られていないものは何一つないということ、自分たちの力で造ったと思うのはあってはならず、私たちの信仰もキリストによって神の力で造られたと語られていました。
それ故、私たちには誇るものは一切ないということです。
誇れるものがないから自分は傷付いているとか、アイデンティティが持てないまでに、家族・学校・職場で酷い扱いを受けたから、心が死んでいると言っていても、実はその状態は心は死んでおらず生きていると感じるほどまでに霊性が回復していないということが教えられました。
たとえ、心身が癒やされていなくても、癒されるまで霊によって忍耐を働かせることは、私たちには可能なのです。
体の痛みがあって体が死んだようになっていても、心が死んだと思っていても、霊的忍耐が働くのです。
私はこの言葉にとても励まされました。
私は若くして10個くらいの病気を持っています。
病名を言い出したらキリがないし、それぞれが爆弾のようなもので、爆発しているものもあれば、いつ発火するかと不安になる辛い思いをしています。
病気そのものではないけれども、統合失調症の症状のせいか、はたまた薬の副作用か、言葉や名前が思い出せなくなってきています。
ですが、そんな辛い時も霊が忍耐を私に与えてくれるのです。
そして、パウロが語った信仰・希望・愛に触れられました。
[コリント人への手紙 第一 13:13]
こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
ここではしっかりと、「一番すぐれているのは愛です」と書かれています。
この愛は「アガペー」、つまり、「神の愛」です。
神の愛とは何か?
父が子を十字架につけるほどまでの愛です。
父が子を十字架につける悲しみはどれほどのものでしょう。誰も慰めることのできない愛ではないでしょうか。
私にも誰が慰めてもなかなか立ち直ることができなかった死別の経験があります。
喜ばしい出来事でも、悲しい出来事でも、出来事そのものではなく、その出来事の中で「十字架のキリストとの出会い」を果たしていくのです。
説教の最後に語られたある言葉は、私の心を貫きました。
人生で起きるあらゆる出来事の中で、どうか「あなた」が「復活のキリスト」と出会ってほしい。
「あなた」が流している涙や受けた傷よりも、もっと深い愛を味わってほしい。
私の涙や傷を覆うほどまでの、深い神の愛……
これこそが、福音だと思いました。
復活のキリストと出会ったマグダラのマリアが足に縋り付くように、私も復活されたキリストの足に縋り付くしかないのです。
今も傷付いている悲しみを抱えて、流れ出る涙を流したまま、キリストの足元に縋り付いていくのです。
私は今も体と心に大きな傷や病があります。
私は礼拝と交わりの後に祈りました。
「私の傷は大きいのですが、イエス様、あなたの十字架の痛みよりも、父なる神様、あなたの悲しみよりも、小さなものです。
どうか、私に『大丈夫』と言葉をかけてください。深い愛で包んでください」と。
短いですが、これが復活の主日礼拝の説教の感想です。
読んでくださり、ありがとうございました😊