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2024年8月28日 聖書講解説教(ガラテヤ書1章13-14節)の感想

本日から主日礼拝説教だけではなく、毎週水曜日13時半(時間の変動あり)に 𝕏 で行われている聖書講解説教の感想を書いていこうと思います。

今日はガラテヤ書1章13-14節からの講解説教でした。
説教題は「律法と伝承の外へ」です。
そこから語られたことのメモの一部をまとめて、感想を折り合わせて書いていきます。

説教音源は以下のプラットフォームにて公開されています。

⬇️

Stand.fm

Podcast(iOS端末のみ視聴可能、Appleによるとブラウザでも視聴可能になる予定だそうです)


本日語られたガラテヤ書1章13-14節の本文を引用します。

"ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。"

ガラテヤ人への手紙 1章13~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

使徒パウロは、復活のキリストの証言者として立つ前に、———その頃はサウロという名で活動していましたが———、ガマリエルというラビの門下のユダヤ教神学校の首席で、エルサレム神殿を追い出されたキリスト者たちを迫害し、次々と牢に入れていた人でした。
当時、ユダヤ人たちから迫害されていたキリスト者たちの中には殉教する人々も出るほどの激しい迫害でした。

本文の引用で太字で強調(当記事の筆者による)されている二つの言葉、

①「激しく」は原文では「イペルボリ」というギリシャ語で書かれており、その意味は「過度に、極度に」です。
②「滅ぼそう」は「ポルソー」で、「(攻略した町を)荒らす、略奪する」という意味です。

つまりパウロはこう言いたいわけです。
「私は過度に神の教会を迫害し、荒らして略奪しようとしました」と。

しかし、このパウロの告白は自己嫌悪からきたものではなく、この文章の送り先である「ガラテヤの諸教会」に対して、自分自身がキリストを信じる前にどれだけ酷い人間だったかを語り、他の人が「罪の告白」をしやすいように、このような文章を残したのです。

そして、本文後半の「先祖の伝承」とは、ユダヤ教の「ラビたちの律法解釈」であり、「律法そのもの」のことではありませんでした。

ガラテヤの教会にパウロが「警告」と呼べるほどの厳しい言葉を語っているのは、当時のキリスト教の異端であった「エビオン派」という一派から送られた「偽教師」にガラテヤのキリスト者たちが騙されていたからでした。

"私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。"
(著者引用)

ガラテヤ人への手紙 1章6~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

この「ほかの福音」と書かれているものが異端の教えでした。

その教えとは、「キリストを信じたら救われる」というものではなく、「律法を守った後で、キリストを信じたら救われる」という二段階論法のような間違った教えでした。

私たちは律法に関して語る人に注意しなければなりません。
キリストは律法のすべてを成就してくださったので、旧約聖書の律法を守ろうと躍起になるべきではないのです。
律法を人間に守ることは出来ません。
もしも守ろうとするならば、罪が入ってきて「死」に至るのです。

"なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。"
(著者引用)

ローマ人への手紙 3章20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

現代では、「十戒の倫理道徳的な部分を守ることによって、信仰を学ぶんだ!」という方々もおられるそうです。

しかし、イエス様は「心の中で兄弟を憎んだだけで人殺しだ」と仰いました。
イエス様が十字架の死と復活によって、私たちに律法からの解放を恵んでくださったのに、律法に回帰することは、キリストの十字架を踏みつけることになるのです。
私たちは心の中で日々絶えず、人を憎んで殺しているのです。

貪りをして、心の中で貪って、復讐心を持つ私たちの、その罪に汚れた心を、心の中の罪を伐採されたのが、私たちの主イエス・キリストです。

だから、私たちは律法に恐れる必要がなく、ただキリストに「ありがとうございます」と言えるのです。


今日、説教後に祈り会がありました。
聖書講解の詳しい説明の後、私は自分の心の中で犯した恐ろしい罪を告白しました。

とても重たい話なので、具体的にどのようなものだったかは割愛します。

その告白をしてから、私は司牧を受けて、自分の心が取り扱われました。

私の中には、「自分と周りの人たちを一生涯苦しめよう」という考えがありました。
それはとても、サタン的な考えだと自分でも分かっていました。

私の悩みはその考え方そのものではなく、この考えが「どこから来たのか?自分の本心なのか?」というところでした。

この思考は数ヶ月前から持っていて、ずっと温めたまま悩んでいました。

ですが、今日の聖書箇所から、パウロの告白に勇気づけられて、教会の交わりで私も告白したのです。

自分だけではなく周りを不幸にしようとする気持ちと、それを本当に悪いと思う気持ちの、全く異なる二つの感情を持っていて、私の心は分裂していました。

しかし最近、お薬の服薬管理を怠った時に、統合失調症の症状が現れ、他者を巻き込んで酷い目に遭わせたことがあって、自分がどれだけ病気に冒されているかが分かりました。

私のそのサタン的な考え方も、病気から出ているという確信を交わりの中でもらえたのです。

私自身の「信仰を持った人格」と「症状」が、混同してしまって、私は本来の私が分からなくなってしまっていました。
だから、とても悩み苦しんでいたのです。

交わりによって、そこから解放された時に、とても心が軽くなりました。

以前学んだことがありますが、交わりにおいて「信頼関係」というものは本当に大切です。

自分の罪を悔いて告白した時に裁かれないこと、安心して自分の本心を話せる共同体があることは本当に大切です。

そのようなことを今日は学びました。

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