2024年9月11日 聖書講解説教(ガラテヤ書1章18-24節)の感想① ーみことば不足と祈り不足ー
今日はガラテヤ書1章18-24節、特に18-19節からの講解説教でした。
説教題は「それから三年後①———キリストにある友」です。
そこから語られたことのメモの一部をまとめて、感想を折り合わせて書いていきます。
説教音源は以下のプラットフォームにて公開されています。
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前回の聖書講解の説教の感想(ガラテヤ書1章15-17節)についてはこちらをお読みください。
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本日語られたガラテヤ書1章18-19節の本文を引用します。
パウロ(サウロ)はイエス・キリストの啓示を受けて改心した後(使徒の働き9章3-9節)、主の命を受けたアナニアから手を置いて祈られました。
しかし、サウロの元に来る前、アナニアは主に「サウロに会いに行きなさい」と言われて、「サウロは迫害者でキリストを信じる人に酷いことをしました」と答え、主の言葉に対して抵抗しました。
アナニアにとっては、迫害者サウロのために祈ることはとても困難なことでした。
ここから、祈れない相手に対して祈っていくことは難しいことであり、同時にその相手のために祈っていくことが、神を信ずる者の愛であることが分かります。
それが、隣人愛の実践であります。
アナニアの応答から、神とアナニアの交わりは続きます。
一度、神に対して自由に応答したから交わりが終わるわけではありません。
アナニアがサウロのために祈りたくないと言ったことから、キリストとの交わりが続きました。
これは、現在の私たちの自分自身のエゴと神様とのぶつかり合いに適用することが出来ます。
神様との交わりは霊的な呼吸であり、命の行動そのものです。
私たちが神様と祈り続けて交わり続けるのは、神様から呼び出しを受けている状態なのです。
もしも、私たちが祈りをしていなければ、霊的な呼吸をしていないことになります。
だから、どれほどしょぼい祈りで、他の人と比較して自分が祈れない人間だと思っても、毎日神様に祈り続けていく、そして、祈りから平安を得ていく日々を送りたいものです。
少年時代のサムエルは寝ている時に三度、主に名前を呼ばれています(第一サムエル記3章)。
私たちもサムエルのように神様から名前を呼ばれています。
そして、サムエルに何度も呼びかけられた神様は、沈黙されず、語り続ける御方です。
ここでの「力」とは、クラトスというギリシャ語で、「奇跡、支配力」を表します。
神はキリストにおいて、語りかけてくださっています。
もし、神様に対して不安なところがあれば、私たちは自由な応答をすることが出来ます。
私たちは自由な応答をして、平安が到来するまで祈り続けていきます。
そうして、祈りきるという感覚を得ることが出来ます。
例えば、眠れない夜も、深夜に起きてしまった時も、ただ心理的な問題だけではなく、祈るべき時が訪れていることもあります。
その時は、どのような体勢を取っていたとしても、祈りきることで睡眠導入に繋がる可能性があります。
しかし、このことに関しては、心理的な問題だ!病気のせいに違いない!とか、これは霊的な問題にとしか思えない!と、考え方が偏らないように、あくまで広い視点で見るべきです。
聖書を読む時に、私たちはキリストによって祈って読まなければなりません。
聖書を知識で読まずに、キリストとの人格的な関係に入って読むのです。
聖書を知識をつけるために読むと、他人にみことばを当てはめて裁くために読んでしまったり、キリストの福音抜きで読んでしまうのですから、自分への裁きの言葉として読んだり、「自分は聖書を知っている」という優越感を覚えて、神の愛からは程遠い信仰に立ってしまいます(全て実体験)。
そのような、自分をキリストから離れさせるような読み方は、今すぐにでも捨て去るべきです。
神の言葉を通して、つまり、聖書を読みつつ祈りに祈っていくのです。
それによって、私たちは祈り不足なのか、みことば不足なのかを判断していく必要があります。
みことばを読んで、祈りで吐く行為をしなければ、霊的に過食気味になり、聖書の言葉が重く感じるようになります。
これが、祈り不足の状態です。
逆に、祈りが続くことがなければ、祈りを引き出していくみことばの不足に陥っています。
これが、みことば不足というものです。
先に引用したヘブル書の「御子にあって」という言葉は「御子の中から私たちに語られた」という意味です。
私たちはみことばを学び続けるだけでいいのか?という疑問があります。
みことばを学んだら、福音が明確になるために、キリストにある兄弟姉妹たちと交わりをする必要があります。
みことばではなく、人を中心とした交わりになれば、神の言葉に結ばれた交わりは破綻してしまいます。
祈りを以てして、神の御心に照らされていき、福音を恥としない信仰を持って歩みたいです。
神の力(クラトス)である福音には、奇跡と唯一のである支配力が存在します。
だから、福音を信じている人は決して軟弱者ではありません。
私は以前の記事で、神に祈った時に返ってきた答えは「沈黙」だったと書きました。
ですが、今回語られた説教では、「神は沈黙されず、語り続けている御方だ」と教えられました。
一見、私が体験したこと今日の説教のみことばは矛盾しているかもしれません。
しかし、私が神様に祈った時、明らかに神に信頼して苦しむ心を委ねてる状態とは正反対の不健全な信仰になっていました。
神様は確かに、沈黙されず語り続けておられます。
けれども、罪を犯して悔い改めがない時に、私たちには神の言葉を聞く耳も、神の言葉を受け入れる心も衰え果ててしまっているのです。
つまり、神が語り続けておられるのに、私たちは自分自身の罪ゆえに、神の言葉がなく、神が沈黙されているように感じているということです。
だからと言って、諦める必要はありません。
私たちは心が衰え果てようとも、ダビデのように神を求め続けることが出来ます。
また、説教の中では「祈り不足」と、「みことば不足」について語られていました。
私はそれを聞いた時、自分がどちらの状態にも当てはまっていると思いました。
祈りがなかなか続かず、かといって、聖書の言葉も時々重く感じていたのです。
聖書を読んで祈ることも大切ですが、信仰は聞くことから始まります。
聖書を土台にした福音を語る説教を聞いて祈ることも、信仰生活を送ることにおいて重要なことです。
時々、教会に行って礼拝に参加する時間がもったいないと言っている人がいます。本当に稀なケースですが…。
ですが、礼拝を抜きにして私たちの信仰は成り立つのでしょうか、と私は疑問に思います。
本来ならば、私たち喜んで捧げる礼拝は、他の何事にも代えられない時間のはずです。
それが、どうして礼拝を蔑ろにしてしまうほどに信仰がやられてしまっている人がいるのか、そして、そういった人たちがなぜ所属教会からケアしてもらえていないのか、とても悲しいことです。
ですから、私は自分に与えられた時間を大切にするためにも、時間の使い方を吟味する必要があると考えています。
noteの記事も基本的に、書き始めたら終わるまで、どれだけ時間がかかろうがぶっ通しで書いています。
祈り不足になるのも、みことば不足になるのも、私が自分の生活を見た時に、信仰に対して使っている時間が少なすぎるのが問題点です。
自分自身の信仰を磨き上げるためにも、知性の祈り、霊の祈り、説教を聞き続けること、聖書を読むことを実践すること、そして、実践した内容を継続していくことに注力していきたいです。
次回は、ガラテヤ書本文の内容に触れていきたいと思います。
⬇️次回の記事⬇️