2023年9月2日 主日礼拝説教の感想
説教題「時の終わり②ー世界の創造」
ヘブル人への手紙1章1-2節
万物の相続者
今回はヘブル書から語られ、次の聖書箇所を釈義と共に引用されていました。
この主語の「わたし」は主イエス・キリストのことです。
引用箇所を読むと、創世記の世界の創造そのものが語られていると分かります。
天の父なる神様が世界を創造された時、主は父の傍らで、創造された「人」という存在を喜んでいました。
そして、主が喜んでおられるのは、この時に創造されたアダムやエバだけでなく、全ての人を喜んでいました。
つまり、私そのもののことも喜んでくださっていたのです。
ヘブル書1章2節の「万物の相続者」の万物とは「よろずのもの」という意味の他に、「全ての人」という意味も含まれています。
そして、相続者とは、クリロノモスというギリシャ語で、相続者の次に、「継承者」という二つ目の意味があります。
主は、御父から「全ての人を受け継いだ」のです。
それには、例外はありません。
私も、家族も、あっちこっちの人も皆、キリストが継承されたのです。
その上で、キリストは全ての人を愛しているのです。
たとえ、私が石を投げられようとも、主は私の存在を、私が母の胎内で形造られる前から喜んでくださっていたのです。
私の不幸だった出来事、辛かった出来事、悲しみ、そのただ中で、主はずっと私の傍らにいたのです。
「あなたが救われる前から私はあなたと一緒にいたよ」
そのようなメッセージを賜りました。
これは、心が弱く、一つの言葉で傷付く私にとって、とても強い励ましの言葉でした。
石を投げられても、主は共におられる。
人を見ると、石が飛んでくるけれども、
主を見ると、主が私を喜んでくださっていることが分かるのです。
最近、4日間くらい偏頭痛に悩まされていました。
痛み止めも効かず、寝込んでいることが多かったです。
ですが、私はその時に、私が痛む時に主も痛まれていると思うと、嬉しくて仕方なかったのです。
今までは、私一人の痛みでした。
でも、今は、私の痛みは主の痛みでもあるのです。
一緒に痛んでくださるだけで、どれだけ私が辛さを乗り越えられるか。
病人の私はそれだけで、満たされるのです。
アビラの聖テレサの悩み
もう一つ、アビラの聖テレサが修道女になる前から悩んでいることがあったという話をお聞きしました。
「神の憐れみの人生」という自伝に書かれていることです。
アビラの聖テレサは、修道女になる前、友人の女の子たちとファッションやメイクなどの女子トークが嫌で悩んでいました。
それに対してテレサは、罪意識を強く感じていたそうです。
しかし、修道女になってから、キリストの話をたくさん出来るようになって、修道会のトイレ掃除をすることに、喜びを感じて、悩みがなくなったそうです。
それを聞いた私は、自分が「地元にいた時に、信仰生活を送る上で、悩んでいたことは何だろう?」と考えました。
そこで、思い出したのは「寂しさ」でした。
私は冷暖房のない物置の部屋で一人で、iPodを使ってSNSで竪琴音色キリスト教会の礼拝に参加していました。
それ自体も寂しかったのですが、その寂しさが頂点に達したのが、「聖餐式」の時でした。
他の人は気にならないかもしれませんが、私は主の食卓を一人で味わうことに、とても寂しさを感じていました。
だから、リアルで礼拝して、同じ教会の方と同じ聖餐に与ることがとても嬉しかったのです。
皆と心を一つにして聖餐式に与れることは、私にとって、とても大切なことでした。
そして、教会の拠点に来て、これからは一人で主の食卓に与らなくてもいい。
そのことを思った時に、今までの寂しさが込み上げて、つい涙が出てしまいました。
聖餐式はキリストと一致すると共に、主の食卓に兄弟姉妹と共に与るというのもあります。
それで、私はアビラの聖テレサの悩みにとても共感しました。
今回はこのような感想になりました。
いつも説教で福音を語ってくださる説教者と、私たちと共に礼拝を捧げてくださる方々に感謝します。
そして、これからも説教者が、福音の真理を語れるように、そのために、本を読んで研究が進みますように。
説教を聴く私たちも、礼拝に集う人たちも、説教音源を聴く人たちにも、聖言を聴く耳が与えられますように。
主の祝福がありますように、祈ります。