悲しむものは幸いです
今回は、マタイの福音書5章4節の山上の説教の箇所の私のディボーション内容を書いていきます。
このディボーションが出来たのは、いつも礼拝で福音を語り続けてくださっている牧師と牧師を通して働かれる聖霊様のおかげです。
+ 神に感謝。
まず、当該箇所の引用から始めます。
この箇所は英語訳のNIVでは「悲しむ者」は「嘆く者」と訳されています。
また、「幸い」とは「happy=幸せ」ではなく、「blessed=祝福されている」であります。
「Blessed=祝福されている」、「mourn=嘆く」、「comforted=慰められる」という意味です。
嘆くほど苦しい状況にある人を神様は慰められます。
でも、慰めは国語的な意味で問題解決そのものではありません。
そして、主は嘆く人は「幸せ」ではなく、「祝福されている」と言います。
だから、神様が与えるのは、この世的な「問題解決の手法」を与えたり、「嘆く人は幸せ」なんてことを言うお方ではないのだろうと推測できます。
では、「祝福」ってなんのことでしょうか?
新改訳聖書2017の注釈を読むと、詩篇1篇が示されています。
ここから、「祝福」とは、「幸せになる」だとか、「問題が解決する」とかそういうものではなく、「主を喜びとする」ことが出来るようになるということだと感じました。
私たちキリスト者は、神に祈る時に「あれをしてください」「これをしてください」などと祈っていないませんか?
私は祈ってしまいます。
ですが、これは私の願いであって、神の願いではないこともあります。
しかし、マリアの「fiat」、ゲツセマネの園の主が祈った言葉はそんなものではありません。
「私の願いではなく、神のみこころがなりますように」と祈りました。
そして、マリアはキリストの受肉という福音の一端を担い、キリストは十字架の上でその身を捧げられました。
これこそが、究極の献身なのでしょう。
マリアの「あなたのみこころがこの身になりますように」という祈りは、主を通してゲツセマネの園の「私の願いではなく、あなたのみこころがなりますように」という祈りとなり、「主のみこころを求める祈り」となりました。
そして、主は私たちの弱さに同情して、ゲツセマネの園では「杯を過ぎ去らせてください(死にたくない)」と弱音を吐き、十字架の上では神に「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだのです。
このようにして、主自らが捧げられた御体と御血は、原罪からの解放と諸々の罪の行為の赦しを私たちに与えました。
だからこそ、私たちが罪人のかしらだからこそ、「主の聖心」と「主ご自身」を求め続けるべきだと思います。
それは、「主ご自身を喜ぶこと」と繋がると考えています。主とその聖心を求め続けることは、とことんまで主を愛し、追い求めることだからです。
それと、キリストと共に苦しむことです。
自分の十字架を背負って、心が傷付いたまま、固いうなじを持ったまま、それらを砕かれに礼拝を捧げることです。
主に体・魂(心)・霊・人生(時間)そのものを捧げることです。
つまり、主を求め、礼拝と聖餐式・聖体拝領を通して、主に自分の持つ全てを捧げること、主の十字架の左か右かに己の十字架で磔られて主と共に苦しむこと。
これらの全部が、キリスト者における「悲しむ者」への「祝福」だと思いました。
今回はここで終わりです。
祈りのうちに、主を求めましょう。
天の父なる神様、
私は「己の不信仰に嘆く者」であります。
苦しむ時にキリストを求めようとせず、愛すことも出来ず、人を見ては痛めつけて傷を付けてしまう者です。
どうか、あなたの福音の真理の十字架の側に立たせてください。
私の信仰がブレることのないように、怒りや沈黙に身を委ねることのないようにしてください。
しかし、あなたは私がどれだけ罪人であろうと無限に罪を赦し、あなたご自身が私を聖心のうちに歩ませてくださることを体験し、信じています。
神の母である聖マリア、罪深い私たちのために祈ってください。
あなたがガブリエルに祈ったその祈りは、キリストが私たちのうちにご降誕する福音へと繋がりました。
どうか、あなたの恵みに私たちも与らせてください。
私たちの罪のために捧げられた、キリストの御体と御血に与り続けることによって、私たちの罪が赦されますように。
神様、私たちがあなたご自身が一人ひとりに与えたい祝福を選り好みして、あなたの聖心から外れることがありませんように。
私たちの願いではなく、主の聖心がなりますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン。
+ 父と子と聖霊の御名によって。
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