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マリア崇敬① ー神の子を宿した母ー

少しSNSを回ってみた時に、プロテスタントの方が、カトリック教会が「マリアの御名」で祈っているとか、そういった大きな誤解をされていたのを見かけました。
ですので、私が今まで学んできた中で、マリア崇敬の話を書いていきたいと思います。

カトリックの方もなかなかマリア崇敬を言葉化出来ない方がおられて、悩んでいる人も過去にいたので、なるべく分かりやすく書きたいと思います。

内容は、神の子を宿した母・十字架の預言を受けた母・取り次ぎの母・キリストの十字架の証言者・全ての人の母というテーマに加えて、私の体験も書こうと思います。
長くなるかもしれないので、テーマ毎に記事を書いていきます。


崇敬と崇拝の国語的意味の違い


まず初めに、崇敬と崇拝の国語的意味を学んでいきましょう。
プロテスタントの中で一番誤解されているのは、この崇敬と崇拝のことで、マリアや諸聖人を神のように「崇拝」しているのではないかということです。
しかし、カトリックは「崇拝」ではなく、「崇敬」をしているのです。

すう‐けい【崇敬】

読み方:すうけい

[名](スル)あがめうやまうこと。尊崇。「生き仏として—する」「—の念」

Weblio国語辞典

すう‐はい【崇拝】

読み方:すうはい

[名](スル)心から傾倒して、敬い尊ぶこと。「心から—する」「偶像—」

Weblio国語辞典

正直に話すと、この意味では少し分かりづらいなと私は思いました。
そこで、類語の意味を調べました。
崇敬の意味に書かれている「尊崇」という言葉は尊敬するという意味合いが含まれています。
対して、「崇拝」は「崇敬」とは違い、心が崇拝の対象に向けられていると理解して良いでしょう。
要するに、尊敬するだけなのか、心から傾倒するのかという違いです。
似たような漢字ですが、意味の違う言葉ですね。


お告げを受けた女性


皆さんご存知の通り、マリアは聖霊によってイエス・キリストを身ごもりました。
男性と関係を持たないまま、処女のまま幼子キリストをその身に宿されたのでした。
少し長くなりますが、天使ガブリエルから主イエスを身ごもるというお告げを受けた箇所を引用します。

[ルカの福音書 1:26,27,28,29,30,31,32,33,34,35,36,37,38]

 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
神にとって不可能なことは何もありません。」
マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

ここで太字にしてある「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」という、マリアの神に対する同意の信仰がマリアが神の母たる所以なのです。
「私は男を知らない」と事実は述べているものの、その後語られた「聖霊によって身ごもる」ことをマリアは信じたのです。
ここから、マリアの信仰は始まるのです。

一方、神のお告げが信じられず、神を試す言葉を言った人がいます。
それは、祭司ザカリヤです。

[ルカの福音書 1:8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22]

 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」
ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

マリアのところに御使いが来る前、天使ガブリエルはザカリヤの元へ来ました。
ザカリヤに妻であるエリサベツがバプテスマのヨハネを身ごもることを告げるためです。
その時に彼はマリアと違い、信仰で神のお告げを受け止めることが出来ませんでした。
それが次の言葉に表されています。

「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」

この太字の言葉が、彼の信仰を表現しているものです。
「私は何によってそれを知れるか?」
これは、神に対して「しるし」を求める行為なのです。

以前の教会の説教で、マリアは男を知らないという事実を述べただけで、神を試してはいないと、しかしザカリヤは神を試したと教えられました。
だから、ザカリヤはバプテスマのヨハネの誕生まで、舌がもつれて会話が出来なくなってしまったのです。
これは、彼の不信仰の結果です。


私を幸いな人と呼ぶでしょう


マリアが信仰者であると同時に、キリスト教にとって特別な女性であることは明らかです。
一つは聖霊によってイエス・キリストを身ごもったことでした。

もう一つ、マリアはエリサベツと共に神に対する賛美を残しています。

[ルカの福音書 1:39,40,41,42,43,44,45,46,47,48]

 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。
あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。
主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
マリアは言った。
 「私のたましいは主をあがめ、
 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
 この卑しいはしために
 目を留めてくださったからです。
 ご覧ください。今から後、どの時代の人々も
 私を幸いな者と呼ぶでしょう。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

まずは、エリサベツの「あなたは女の中で最も祝福された方」という言葉です。
マリアは他の女性とは違って、主イエス・キリストの母となっています。
神の恵みを一身に受け、聖霊によって覆われて身ごもったのです。
ですから、マリアは「女の中で最も祝福された方」なのです。
この恵みは、他の女性は受け取ることがなかったものです。

次に、マリアの賛美です。
「どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」
マリアのこの言葉の通り、色んな教派・教会でマリア崇敬は語られています。

アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたと共におられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、私たち罪人のために
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン。

アヴェ・マリアの祈り

このような形でマリアに取り次ぎの祈りが現在でもなされています。

マリア崇敬は初代教会からずっと続いているものです。
実際にマリアはイエス様の昇天後も使徒たちと共に祈っていました。

そして、知らない人は先ほど引用したアヴェ・マリアの祈りをよく見ていただきたいです。
アヴェ・マリアの祈りはマリアに向かう祈りとして一番祈られる祈りですが、あなたはこの祈りに「マリアの御名で祈る言葉」を見つけられますか?
むしろ、主の母マリアに私のことをお祈りしてくださいと祈っているのです。

もう帰天されていますが、教皇ヨハネ・パウロ2世はマリア崇敬を通してキリスト中心の信仰になることを言い残しています。

神の母への真の信心こそが、実はキリスト中心的であり、いやむしろ、この信心こそ、三位一体の神秘、ならびに、受肉および贖いの両神秘にきわめて深く根ざしているということを。
(中略)
マリアは、新しいアダムであるキリストの面前に、神によって位置づけられた新しいエバなのです。
イエスとマリアのこのかかわりは、受胎告知に始まり、ベトレヘムでのイエス誕生の夜をとおって、ガリラヤのカナでの婚宴、ゴルゴタでの十字架を経て、聖霊が降臨された高間へと続いていきました。
そういうわけで、贖い主キリストの母は教会の母であられます。

『希望の扉を開く』教皇ヨハネ・パウロⅡ世
新潮文庫
p260〜261


マリアに呼びかける祈りに関しては、テーマの三番目の「取り次ぎの母」で語りたいと思うので、ここでは詳しく書きません。

次のテーマは「十字架の預言を受けた母」です。
少しずつ書いていきたいと思っておりますので、もしよければ読んでいってください。

追記
私の所属教会である竪琴音色キリスト教会で、正式にマリア崇敬の記事が書かれました。
是非、ご一読いただければ幸いです。

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