礼拝と召命
皆さんは、自分の通う教会の礼拝が来週にはないかもしれないと考えたことはありますか?
自分の召命を神様に祈ったことはありますか?
教会の存続と召命、直近の説教で私たちの教会・竪琴音色キリスト教会で語られたことであり、今迫っている教会の危機でもあります。
礼拝の危機
まずは、礼拝存続の危機です。
なぜ、そのような状況になったのか?
様々な原因があります。
弾圧、理解のない人からの迫害、貧困...etc
特に伝道者は前回の礼拝で一度もマイクを使わず、喉を痛めてしまいました。
私は彼の妻として、どうすれば彼が体に負担をかけずに礼拝が出来るか、頭を悩ませる日々です。
そして、ある事情で福音宣教の働き、礼拝の働きが断たれようとしている今この時、夫である伝道者は時々、放心状態になることや、祈ったまま動かなくなることがあります。私はそれを心を痛めて見ています。
ですから、私はこの記事を見た方にお伝えしたい。
礼拝は当たり前に与れるものではありません。
突然、あなた自身が事故に巻き込まれてしまうかもしれない。
突然、司祭や牧師が病気になるかもしれない。
突然、教会そのものがなくなってしまうかもしれない。
だからこそ、キリスト者である私たちは、神から恵みとして受け取ったキリスト者最高の特権である礼拝を大切にしていかねばならないのです。
私は以前、伝道者から教えられた「這ってでも礼拝する」というスピリットを受け継いでいます。
それが、今の礼拝を休んだことのないということに繋がっています。
今日与る礼拝が最後かもしれない。
そう思わされるだけで、礼拝という神からの恵みに対する見方と、説教を聞く耳が変わると思います。
私たちの教会は少なくとも、そのような歴史を歩んできました。
自分自身の召命
召命とは一人一人違います。
それぞれの信仰や個性によって、神がなさりたいことを与えられます。
私は教会に一時期、伝道者と二人だけになった時から、伝道者の奉仕の大変さ、生活実態を見て、「伝道者を助けなければならない」という強い気持ちが起こされました。
今もそうです。伝道者のことを助けたくて仕方ないです。
ですから、伝道者のために私が出来ることは何でしょうか?とよく神様に祈ります。
しかしながら、私は精神障害者で情緒が不安定で、伝道者に幾度となく迷惑をかけています。
だから、本当に私は伝道者を支えられるのだろうか?と不安になることが多々あります。
時々説教で語られるのは、召命のしるしとして、
・聖言があること
・そのことについて祈り続けられること
・行いの継続性
こういったものが、語られています。
私はこれを枠にはめて自己判断して「絶対に」大丈夫と安住するつもりはありませんが、今のところ、私の伝道者を支える働きは続いています。
勇気を出して一歩
先述したように、私たちは今、礼拝が続けられるかどうかも怪しいところに立たされています。
夫の伝道者もそれでかなり悩んでいる。
4月29日の礼拝を通して、私は祈り心で説教を聞いているうちに、自分の出来ることをして教会を守ろうと思い至りました。
そして、私は最も親しい人に助けを求めました。
厳しいことを言われること、嫌われること、乞食のように思われること、最悪の場合、関係を切られることを覚悟していました。
人に頭を下げて助けを乞い願うことは、とても勇気のいることです。
LINEでメッセージを送り、返信を見る時、とても緊張して手が震えていました。
返信を見た時、相手は事情を理解し、出来る限り助けるようにすると言ってくれました。
しかし、返信の中には心に刺さる言葉も書いてありました。
それから、夫のアドバイスで相手を気遣ってお返しをすると誠意を伝えてやりとりをしていたら、相手からは「お返しはいらないよ。(あなたたちが)大変なの分かってるからね」と言ってくれました。
とても、良心が痛みますし、耳の痛いことも言われました。
ですが、少しずつでも、福音宣教のために私が出来ることをしていきたい。
怖いから引く。
これは今までの私でした。相手が怖いから、嫌われたくないから不満を言わない。
仕返しが怖いから何もしない。
ですが、キリストが与えてくださった恵みを祈りを通して受け取る、様々な受け取り方がありますが、今回は勇気を振り絞って助けを求めることでした。
私は礼拝を、福音宣教を、伝道者を、私や福音を必要としている人のために教会を守りたいです。
神は必ず倒れそうな私たちを再び立ち上がらせてくださると信じています。