私はこれまで何度も主の言葉に反発してきた。
「あなたは神の言葉を聴くと、反抗してくる」と指摘されたこともあるほどだ。
そんな日々を過ごしていても、私は背教者とはなれなかった。世に戻るということは出来なかったのである。
ある日、私はキリスト像を見つめて、心の中で主に語りかけた。
「どうして、私がこんなにもあなたから離れることがあるのに、あなたは私を見捨てられないのですか?あなたが見捨ててくだされば、私はこの世に未練を残さずにいられますのに」と。
しかし、帰ってきたのは、「沈黙」であった。
遠藤周作の著作で知らない人はいないであろう、「沈黙」という作品がある。
その作品を映画化したものが「サイレンス」という、宣教師を主人公にした映画だ。
サイレンスでは長崎の惨たらしい迫害のシーンが描写される。
その時に、宣教師も迫害を受け、神に「主よ、どうしてですか」というような心の叫び声を上げていた記憶がある。
だが、宣教師に返ってきたのは「沈黙」だったのだ。
主は「沈黙」を通しても語りかけられるお方であった。
話を戻そう。私が「なぜ主は私を見捨てられないのか?」と問うた時に、主が何も語られなかったのは、私自身が「私が主から見捨てられると死んでしまうこと」を知っていたからだと悟った。
主はご自身の言葉を通して、既に私に語りかけていたのだ。
何も答えが返ってこなかった時は、謎に安堵した。
むしろ、答えが出た方がおかしいと私は考えていた。
私が主に問うたものは、自分で考えるべき問いかけでしかなかった。
そして、主に「私を見捨てよ」と言いたくなってしまう私は、自分の命を絶つことすら「主のせい」にしたがるような愚か者なのだ。
「生殺与奪の権利を他人に委ねるな」という有名なセリフがある。
私を生かすも殺すも、私の命を握っているのはイエス・キリストご自身である、という信仰は私も持っている。
しかし、自分の死を自分のせい、他人のせいにすることは聖霊から来るものか、肉から来るものかは明らかであるだろう。
御霊は命を与えるお方である。
しかし、死を選んでしまうキリスト者の方々はいるであろう。
私にはその人たちがどこに行くのかを語ることは出来ない。
けれども、主は御霊に従う人に安息を与えられるお方である。
私も例外なくそのようになる。主に信頼し、服従している時は私は本当に心の病気がないかのように、どれだけ肉体の苦しみがあろうと、恵みとして生きることが出来るのだ。
しかし、主から離れたら病気の症状が止めどなく溢れ出て、ついには他人を罪に巻き込んでしまうのである。