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主は「沈黙」を通して語られる

私はこれまで何度も主の言葉に反発してきた。
「あなたは神の言葉を聴くと、反抗してくる」と指摘されたこともあるほどだ。
そんな日々を過ごしていても、私は背教者とはなれなかった。世に戻るということは出来なかったのである。

ある日、私はキリスト像を見つめて、心の中で主に語りかけた。
「どうして、私がこんなにもあなたから離れることがあるのに、あなたは私を見捨てられないのですか?あなたが見捨ててくだされば、私はこの世に未練を残さずにいられますのに」と。

しかし、帰ってきたのは、「沈黙」であった。

遠藤周作の著作で知らない人はいないであろう、「沈黙」という作品がある。
その作品を映画化したものが「サイレンス」という、宣教師を主人公にした映画だ。

サイレンスでは長崎の惨たらしい迫害のシーンが描写される。
その時に、宣教師も迫害を受け、神に「主よ、どうしてですか」というような心の叫び声を上げていた記憶がある。
だが、宣教師に返ってきたのは「沈黙」だったのだ。
主は「沈黙」を通しても語りかけられるお方であった。

話を戻そう。私が「なぜ主は私を見捨てられないのか?」と問うた時に、主が何も語られなかったのは、私自身が「私が主から見捨てられると死んでしまうこと」を知っていたからだと悟った。

主はご自身の言葉を通して、既に私に語りかけていたのだ。

"イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。"

ヨハネの福音書 20章30~31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

何も答えが返ってこなかった時は、謎に安堵した。
むしろ、答えが出た方がおかしいと私は考えていた。
私が主に問うたものは、自分で考えるべき問いかけでしかなかった。

そして、主に「私を見捨てよ」と言いたくなってしまう私は、自分の命を絶つことすら「主のせい」にしたがるような愚か者なのだ。

「生殺与奪の権利を他人に委ねるな」という有名なセリフがある。
私を生かすも殺すも、私の命を握っているのはイエス・キリストご自身である、という信仰は私も持っている。

しかし、自分の死を自分のせい、他人のせいにすることは聖霊から来るものか、肉から来るものかは明らかであるだろう。

"肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。"

ローマ人への手紙 8章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

御霊は命を与えるお方である。

しかし、死を選んでしまうキリスト者の方々はいるであろう。
私にはその人たちがどこに行くのかを語ることは出来ない。

"しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。"

ローマ人への手紙 10章6~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

けれども、主は御霊に従う人に安息を与えられるお方である。
私も例外なくそのようになる。主に信頼し、服従している時は私は本当に心の病気がないかのように、どれだけ肉体の苦しみがあろうと、恵みとして生きることが出来るのだ。
しかし、主から離れたら病気の症状が止めどなく溢れ出て、ついには他人を罪に巻き込んでしまうのである。

"しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った。それで、主の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。"

"主はヨシュアに告げられた。「立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。
イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れることまでした。"

ヨシュア記 7章1節
ヨシュア記 7章10~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

"こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。
というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。
信じた私たちは安息に入るのですが、「わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない』」と神が言われたとおりなのです。もっとも、世界の基が据えられたときから、みわざはすでに成し遂げられています。
なぜなら、神は第七日について、あるところで「そして神は、第七日に、すべてのわざを終えて休まれた」と言われ、
そのうえで、この箇所で、「彼らは決して、わたしの安息に入れない」と言われたからです。
ですから、その安息に入る人々がまだ残っていて、また、以前に良い知らせを聞いた人々が不従順のゆえに入れなかったので、
神は再び、ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と語られたのです。"

ヘブル人への手紙 4章1~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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