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2024年10月30日 聖書講解説教(ガラテヤ書2章1-3節)の感想

気候の変化による体調不良で、説教の感想が書けていませんでしたが、ちびちびと再開出来たらいいなと思います。

今日はガラテヤ書2章1-3節からの講解説教でした。
説教題は「愛によって働く信仰」です。
そこから語られたことのメモの一部をまとめて、感想を折り合わせて書いていきます。

説教音源は以下のプラットフォームにて公開されています。

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前置き


本日語られたガラテヤ書2章1-3節の本文を引用します。

"それから十四年たって、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。
私は啓示によって上ったのです。そして、私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました。おもだった人たちには個人的にそうしました。
しかし、私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強いられませんでした。"

ガラテヤ人への手紙 2章1~3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

今日の説教の冒頭では、「退行」ということについて語られました。

「退行」とは、精神保健福祉用語で、「幼児退行」など、あまり良い言葉として使われたり、良いイメージを持つ人は少ないと思います。

しかし、キリスト教には、健康的な退行と、病的な退行というものがあります。

まずは、健康的な退行とは何かをみことばに沿って見ていきましょう。

"さて、イエスに触れていただこうと、人々は幼子たちまで連れて来た。ところが、弟子たちはそれを見て叱った。
しかし、イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」"

ルカの福音書 18章15~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私たちはよく教会でも、聖書の中でも、「幼子のようにイエス様を信じなさい」と教えられると思います。実際にイエス様は子供たちを祝福されました。
この場合の、幼子のようにイエス様に甘えていく退行というのは、自分自身のコントロール下にある退行で決して病的なものではないと言えるでしょう。

ですが、この自分自身がコントロールして起こしている退行の状態を一部の人は分からなくなって、上記のみことばの弟子たちのように、許せなくなって、叱責してしまうことがあり、余裕がない人もいるのではないでしょうか。

信仰に対してあまりにも真剣になりすぎて、自分で自分を窮屈にして、無邪気さを許せず、他の人がイエス様の元へ行くのを邪魔しようとするのです。
信仰は生半可な道ではないというのは承知の上で、この弟子たちはイエス様の前に立ち塞がってしまう病的な状態であったのではないでしょうか?

イエス様の元へ行こうとした子供たちとは逆に、病的な退行を起こした者たちもいます。

"エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、その町から小さい子どもたちが出て来て彼をからかい、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭」と言ったので、
彼は向き直って彼らをにらみつけ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、子どもたちのうち四十二人をかき裂いた。"

列王記 第二 2章23~24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ここに書かれている「子供たち」は主に遣わされた預言者エリシャを嘲笑し、主を侮った姿が描かれています。

ここで使われている子供たちとは、ヘブライ語で、「青少年、未熟者」という意味の言葉です。
エリシャを侮辱した子供たちは、日本語聖書本文からヤンチャ坊主のようなイメージとは、異なります。

健康的な退行とは、言い換えれば、キリストの元へ導かれ、キリストに祝福される退行です。

対して、病的な退行とは、のろわれる退行です。

ここで言う「はげ頭」とは、「権威に対する不信と不敬、嘲り、吐き捨て」の言葉で、エリシャの時代に使われていたこの言葉は、現代日本で使われている時よりも、もっと酷い馬鹿にした言葉です。

主が派遣した預言者の権威を侮った=主の権威を侮ったことになると考えられるので、神の怒りを買ってしまいました。
それで、第二列王記の当該箇所に登場する「子供たち」の42人が2匹の雌熊に噛み裂かれるという悲惨な目に遭ってしまったのです。

時に、この箇所をひどくないか?と言う人たちを見かけたことがありますが、私たちはこの事件に対して部外者ではなく、神の言葉を侮ったら、私たちも雌熊に噛み裂かれてしまってもおかしくないということなのです。

しかし、私たちはそこで恐怖を覚えて神様が怖いと考えるのではなく、キリストが罪にせよ、侮辱にせよ、弱さや未熟さにせよ、十字架に至るまで徹底的に謙遜であり続け、救いのためにそれを貫いてくださったのです。

だから、私たちは許されているからとか、第三者として見て、これは一つのストーリーに過ぎないと考えるのではなく、私たちが言葉の罪によって神を侮り、死んでいたはずの者であると覚えていくのです。

退行して未熟な人たちが、教会に来たとしても「うるさい」というのではなく、そう言ってしまう自分自身こそ未熟者で、病的な退行を起こした者であると認めていくのです。

キリストの元に来る幼子たちや未熟者たちを否定することで、キリスト信仰から離れさせ、自分たちについて行かせる。
これが、ガラテヤ書に登場する偽教師たちがガラテヤの諸教会の信徒たちにやってきたことです。


本文


本文に入りますので、もう一度みことばを引用します。

"それから十四年たって、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。
私は啓示によって上ったのです。そして、私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました。おもだった人たちには個人的にそうしました。
しかし、私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強いられませんでした。"

ガラテヤ人への手紙 2章1~3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

パウロがエルサレムに上った理由は、エルサレム教会の信徒たちや、使徒たちに何か教えを請うわけではなく、神様に啓示されて上って、パウロが使徒として、今まで行ったダマスコでの宣教や、今、異邦人たちに宣教していることが無駄にならないように、パウロの伝えている福音をエルサレム教会でも共有して、福音が一つであることを確認したのです。

ここでの、「無駄にならないように」とは、「中身のない、空っぽの、空しい、自惚れた、愚かな、見せかけだけの」という意味の言葉が使われています。

使徒パウロでさえ、自分自身の持っている福音が、愚かで自惚れたものや、空っぽで中身のないものにならないように、教会の信徒たちと信仰と福音を共有していたのです。
教会の存在意義はそこにあります。

なぜ、私たちはスモールグループや、礼拝や、聖書研究会に参加するのか?
それは、他の人に会うためではありません。

いかに自分自身が神と無縁な生活をしているのかを知るためです。

キリスト教の教義として、私たちはキリストに対する信仰のみで救われると信じているはずです。
それはつまり、私たちはキリスト信仰がなければ、祈ることも、礼拝することも、賛美することも、交わりをするほどの価値のない者であるということです。

祈りや礼拝や、キリスト者であるということが誇りになっているならば、それは捨てるべきです。

ディボーションも祈りも、それ自体は良いものです。
しかしながら、それらを日々の霊性の維持に使うならば、自分を誇ることのできない方向性へと向かわせていきます。

でも、それらの使い方を間違えて、自分自身が正しいんだ、断食しているから偉い、聖書を通読しているすごいと誇りになってしまっているならば、ただ信仰の邪魔になっているのです。

私たちは、祈りでも、礼拝でも、賛美の中でも、パリサイ人ではなく、取税人の祈りにヒントを見出していく必要があります。

祈る資格も、聖書を読む資格も、礼拝する資格も、キリストを信じていなかったならば本来はなかったはずです。

ですから私たちは、教会に参加するのでも、行く(通う)のでもなく、教会に置かれているのです。
私たちが教会を選ぶのではなく、神様が私たちを教会に置くのです。
私たちは教会にノックすることも出来ない人間です。
教会にいること、礼拝していること、祈り会に参加することが誇りになってしまうと、己が祈りが自己満足の祈りになり、そこにキリストのとりなしの祈りや、十字架が入る余地があるかないかは明確でしょう。

自分が良ければそれでいい、この考え方を自己義認と言うのです。
私たちは行いで救われる行為義認ではなく、キリストを信じる信仰義認で生きています。

私たちの信仰が中身のないものにならないために、福音自体が無駄にならないために心がけていくことが重要です。


感想


実はというと、端的にまとめた記事になっていますが、今回の説教は難しい内容で、説教者からの解説を聞き、何度も説教を聞かないと、いつも同じ説教者の説教を聞いている私でも、内容が分かりませんでした。
ですが、それほど濃い内容で考えさせられる説教であることは間違いありません。

聖書講解後に交わりがあって、説教の感想を言う時間が設けられた時、私は感想を言うつもり満々で臨もうとしたのですが、いざ、説教でとったメモを見ると、頭が真っ白になってしまいました。
私は説教の内容が理解出来ていなかったのです。

だから私は、説教者に嘘偽りなく、「ごめんなさい。全く感想が思い浮かびません。」と言うしかありませんでした。
分からないことをこのような場ではっきりと分からないと言うのは、とても勇気が必要です。

しかし、お互いに信頼関係があるからこそ、私は交わりの中で、説教が何も分からなかったことを言えました。
キリスト者の交わりには信頼関係が重要な要素であることをここで強調しておきたいです。

さて、何も分からないから、自分は説教で語られたことを理解していないことを説教者に伝えましたが、「どうして分からなかったんだ」と言われるようなことはなく、「分かるところから話していこう。聖書講解の本文から分かったことはあるか?」と聞かれたので、私は手元の聖書のガラテヤ書2章1-3節に目を通したところ、全く本文の内容が頭に入っていないことに気が付きました。

ですので、しばらく考えてから、「テモテは異邦人であったのに、キリスト教会の母教会であるエルサレム教会からは、割礼(律法を守ること)を強いられなかったことが分かる」と答えました。

そこから話が展開し、ガラテヤの諸教会に入ってきた偽教師たちが、「律法を守った後に、キリストを信じれば救われる」という異端を持ち込んだ話になりました。
この偽教師たちは、自分たちがエルサレム教会から来たことを誇りにし、異邦人の教会であるガラテヤの諸教会の信徒たちに律法をまもらせようとしたことを教わりました。

そこで、使徒パウロはエルサレムに上った話をしましたが、ガラテヤ書本文で「テトス」の存在が明記されていることに着目して、このテトスは生粋のギリシア人であることから、「異邦人で救われたキリスト者の代表」として、パウロがエルサレムに伴ったということを教えられました。
このテトスが、エルサレム教会に割礼を強いられなかったことこそが、ガラテヤの偽教師たちに正当性がないことを示すことになりました。

そこから、話は転じて、律法つながりの話として、異邦人には律法が与えられていないが、律法を良心に刻み込まれているということまで話が広がりました。

倫理・道徳で、良心の呵責を感じると言うことが、異邦人にとっての律法のようなものです。

それで、日常生活で焦ったり、不安になることはないか?という話になった時に、私ならば例えば、後払いで買った品物の支払いを遅らせると焦るし、病院の通院日なんかは心に余裕がないことを思い出しました。
そんな日常の大したことのないように感じられる一つひとつの出来事に、果たさなければならないことを果たしていきなさいという、神様からの命令があるのだと教えられて、ここ1、2ヶ月は怠け者だった私もさすがに驚きました。
そんな私の日常に神様は共におられるのです。

ですから、最近になって、信仰の喜びを自分自身にもたらすために、精神障害でしんどくても神様に頼れるような力強い関係を神様と持つことが出来るように、日々の学びや祈りを欠かさないようにしていこうと考えを改めました。

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