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聖家族への崇敬
"イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
西方教会の教派間で、現在は特にSNSで、マリア崇敬についての衝突がたくさんあるのを見てきています。
それらに対して、140字の投稿を連ねて自分の考え方を言うのも良いでしょう。
しかし、今回私はnoteに私が学んできたことの多くを書き残すのは良いことだと考えて、「聖家族」という見方で、マリアやヨセフへの崇敬心について書いていこうと思います。
失われた家族
まず、これを読んでいる人に私は問いかけます。
「あなたはご両親の家庭で育って幸せだと感じていますか?」
これに対する回答は個人によって違うでしょう。
この質問は人によっては嬉しいことや嫌なことを想起させると理解しています。
私たちはそれぞれの人生において、親から受けたことは当たり前のことですが、違います。
親が持っていた価値観を時には受け継ぎ、時には否定して生きています。
これは、誰もが自力では逃れられない定めだと私は考えています。
例えば、親が嫌で、親を否定すればするほど、自分が親に似ていってしまうなど、ありふれた出来事です。
精神科・心療内科においても、「愛着障害」などの診断マニュアルに引っかからない、その人特有の生育歴や環境から影響を受けた生きづらさに着目している医師がおられます。
これは、従来の診断ではアプローチ出来なかった精神疾患とは違う独特の症状について理解しようという動きが起こっているようです。
精神科での「家族や育ち」に対する見方が、「患者に影響を大きく与えるもの」として見る医師も増えているということです。
さて、そういった家族関係が個人の価値観に多大な影響を与えると語った上で、本題に入っていこうと思います。
まず、聖家族の崇敬を語るためには、人間世界での「父母」について考えていく必要があります。
私たちは子供の頃に、たくさん両親から愛されて育っていく必要があります。実際にそうであるべきなのです。
しかし、事実は異なり、「毒親」「機能不全家族」「アダルトチルドレン」「虐待」などが言葉だけではなく、現実に起きる出来事として飛び交っています。
そして、親から不当な扱いを受けてしまった子供の心はすさみ、やがて自分自身や他の人を傷付けてしまう行動に走ってしまうのです。
この親から受けた傷が深ければ深いほど、子供は心の中で「親」を失い、人生で戦っていかなければならないほどの強い苦しみに縛られてしまいます。
親を失うこととは、そのようなことでもあります。
しかしこれは、マイノリティの事例で多くの人はそのような環境に身を置いてはいないと私は思っています。
ですが、忘れてはいけないのは、「私たちはいずれ親と『死別する』」ということです。
私たちはいつまでも子供のままで生きていくことは出来ず、大人になって、結婚する人は結婚し、独身の人はその人の家庭を築いていきます。
その時に、親からは自立(身体的・精神的・経済的)を果たします。
親がいなくなってからは、一人でいても生活出来るようにならなくてはいけなくなっていきます。
人はいつか一人で苦しみ、悩み、重荷を背負う時が来るのです。
それは、人生の初期、半ば、晩年、はたまた生きている間ずっと、ということもあります。
家族との別離は、生きている限り起こっていく出来事です。
親が貧乏や病気になり、弱っていく姿を私たちは見せられていきます。
その度に、私たちは悲しんでも、立ち直って生きていくしかありません。
これが、本来の意味で家族を失うことでしょう。
ですが、主イエス・キリストは私たちにこのように呼びかけています。
"わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
これは、「私たちは決してイエス様から見捨てられず、ひとりぼっちになることはないよ」というイエス様からの愛のメッセージです。
この言葉は、父なる神様の言葉でもあります。
"イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この言葉によれば、イエス様はご自身を遣わされた父なる神様が行われたことと同じことを行うと語られています。
つまり逆を言えば、「イエス様が私たちを見捨てない」ならば、「父なる神様も私たちを見捨てない、私たちを孤児にはしない」ということなのです。
だから、「あなたがたを捨てて孤児にはしない」と言ってくださるからこそ、私たちも主イエス・キリストの父なる神をキリストを通して、父としていくことが出来るのです。
"あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
では、父なる神様がいながらも聖家族の必要性とはどこにあるのか?
そのような問いかけに対して、私なりに考えたことを書いていこうと思います。
ヨセフ ー正しい父ー
初めにヨセフについて書いていきたいと思います。
「カトリック教会では、マリアに比べてヨセフは崇敬されていないのはどうしてだ」という疑問を上げている人を何人か知っていますが、キリスト者の間でどのような崇敬がなされていようとも、私にはヨセフはマリアと同様に崇敬される理由があると考えています。
それは、マリアはダビデの末裔のヨセフの婚約者であり、マリア自身がダビデ契約の中に入れられていたと、聖書を読んで私は解釈したからです。
つまり、マリアが救い主の母であり得たのは、ヨセフと婚約したからと言うことも出来るのです。
"アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様の系図を引用すると長くなってしまうので、ダビデの系譜に父ヨセフとイエス様が存在したということを把握するだけでも良いと思います。
ヨセフに関する記述はマリアに比べて、ほとんどありません。しかし、ヨセフについて五つほど聖書に明記されている事柄があります。
それらについて、聖書から見ていきましょう。
①正しい人
これについては有名な箇所で明確に書かれていることですから、キリスト者の中で知らない人はいないかと思われます。
"イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ヨセフがなぜ、マリアが身ごもったことを知った時にマリアと離縁しようとしたかと言うと、マリアが他のユダヤ人たちとの間で、律法で禁じられている婚前交渉をしてしまった女性として、神の前に罪のある者としてさらし者にされ、石を投げられて殺されてほしくなかったからでした。
"ある男と婚約中の処女の娘がいて、ほかの男が町で彼女を見かけて一緒に寝た場合、
あなたがたはその二人をその町の門のところに連れ出し、石を投げて殺さなければならない。その女は町の中にいながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻を辱めたからである。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
マリアが人々に裁かれずに、イエス様を出産することが出来たのは、この愛において正しい人であるヨセフがいたからでした。
②従順な信仰者
そして、マリアとひそかに離縁しようと考えていたヨセフに夢で御使いが現れました。
"彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
神から託された命令を御使いが伝えた後、すぐにヨセフがマリアを妻として迎え入れた姿が描かれています。
"ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
神からの命令に対して、ヨセフはすぐに服従してマリアと結婚しました。
一見、ユダヤ人の掟を破ったように思われるマリアを庇うということは、ヨセフも危険にさらされる可能性がありました。
しかし、彼は命懸けでマリアとお腹の子を守ったのです。
ヨセフはイエス様の降誕後、さらに夢で御使いに知らされました。
"彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、
ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ここでも、ヨセフは夢で御使いに語られてすぐに行動に移しています。
これが、神の言葉に服従する父ヨセフの姿です。
マリアとその子であるイエス様を守るために命を懸けて神に従ったのです。
③律法を守る人
正しい人ヨセフは、ユダヤ人としてモーセの律法を守る人でもありました。
"そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。
それは、主の律法に「最初に胎を開く男子はみな、主のために聖別された者と呼ばれる」と書いてあるとおり、幼子を主に献げるためであった。
また、主の律法に「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」と言われていることにしたがって、いけにえを献げるためであった。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
律法が制定されてから福音が完成する前は、ユダヤ人が新約時代における信仰者の型として書かれています。
ここでヨセフたちによって律法が守られたのは、幼子であるイエス様が聖別されて神に捧げられることで、私たちも主に献げられた者として生きることの型であると解釈することが出来ます。
これは本当に私の個人的な考えなので、流しても良い部分ですが、ヨセフとマリアが律法を守っていたのは、父ヨセフと母マリアを通して、イエス様のご生涯全ての中で律法の成就が果たされることが目的なのではないか、と私は読んでいます。
特に、幼子であるイエス様は一人で神殿に奉献されることは出来ないので、神を信じる者として律法に忠実な両親の元でお生まれになったのだと思っています。
"わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
④イエスをいつくしんだ父
父ヨセフは子供であったイエス様をいつくしんで育てた人でした。
"イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様の公生涯では、御父と御子の愛がとても強調されています。しかし、ルカの福音書2章52節では、イエス様が神である御父だけにではなく、人にもいつくしまれて育てられたことが分かります。
たった一文の記述ですが、ここにイエス様がヨセフとマリアの家族の中で愛されて育ったことを思い深めていくことが出来ると思います。
⑤イエスと共にいた父
最後に、少年期のイエス様は両親に仕えられていました。
"それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
しかし、これだけではヨセフとマリアに仕えられたイエス様がどれだけ家族と共におられたかということが掴めないと思います。
イエス様が育った故郷のナザレの人々からは、イエス様は次のように言われています。
"人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ナザレではイエス様は、「ヨセフの子」と認知されていました。
ここから、イエス様がヨセフの息子だと周囲の人に知られるほど、ヨセフと時間を共にしていたことが想像出来ます。
この聖書から紐解いた五つのヨセフについての事柄からも、また、ここにはないような聖書箇所からも、ヨセフはイエス様の父として立派に召命を成し遂げた人だということを理解していきたいです。
マリア ー教会の母ー
マリアと言えば、大天使ガブリエルからお告げを受けたことが有名ですが、今回は母としてのマリアを見ていこうと思います。
①父なる神、母なる教会
キリストを信じた私たちは、神様が私たちの父となることを学びます(神の子とされたことを学びます)。
そこで私は所属教会の伝道者に真っ先に尋ねたことがあります。
それは、「神様がお父さんなら、お母さんは誰になるの?」ということです。
人は父と母がいなければ、生まれることは出来ません。
それに対しては、このように答えをいただきました。
「母なる教会が母性を担うんだよ」という感じだったと思います。
私たちキリスト者の父が神であるならば、母は私たちの教会であるということです。
そこで、血縁による親子関係から、霊において繋がった親子関係が結ばれるのです。
キリストを信じて、神を父とし教会を母とする私たちは神の子である。それが「神の家族」なのです。
②十字架の下で結ばれた家族関係
イエス様の十字架の下には、イエス様の弟子と女性たちがいました。
彼らがイエス様の最後を目撃しました。
"イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様が死の直前に放ったこの言葉によって、この時十字架の下にいた使徒ヨハネに母マリアが託されました。
イエス様がマリアを愛していなければ、そして、使徒ヨハネを信じていなければ、イエス様が使徒ヨハネにマリアを任せることはしなかったであろうと、教会での話があったことを思い出します。
そして、イエス様がマリアを使徒ヨハネに預けた時に放った言葉は、「ご覧なさい。あなたの母です」という言葉です。
ヨハネの母親として託されたこのマリアに教会の母性を担う片鱗が写されているのです。
兎にも角にも、ここで神の家族が完成するのです。
これは、イエスの十字架の言葉でもあるので、とても重要な場面です。
③教会の母性であるマリア
イエス様の復活と昇天の後、マリアは「イエスの母マリア」として、使徒たちと共に心を一つにして祈っていたことご明らかにされています。
"彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
それから聖霊降臨の記事に入り、マリアの固有名は出てこなくなります。
しかし、使徒といつも共に祈っていたマリアは聖霊降臨の場面にもいたことでしょう。
ではなぜ、聖霊降臨を境にしてマリアの名は消えたのか?
それは、教会が誕生したことで、「イエスの母」としてのマリアは聖書の中で役割を終えたと考えられます。
それからマリアは聖書本文では「女」と呼ばれるようになりました。
"しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
しかし、マリアの存在が完全に消え去ったわけではなく、一信仰者の記録として、または教会の母性として、マリアは残されています。
聖家族から神の家族へ
"イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ここに、聖家族としての愛が凝縮されています。
イエス様は父なる神の愛だけでなく、家族としての父母の愛を知っていたからこそ、「みなしご」である私たちの悲しみ・苦しみ・不安・寂しさの中に存在してくださるのです。
そして、聖家族は愛し合う家族の型として、神の家族に集約されました。
"イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
同じキリスト、同じ福音を信じる私たちは、神に家族とされた兄弟姉妹として教会に集います。
"こういうわけで、私は膝をかがめて、
天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
引用文の太字で示した「家族」という言葉は、「士族、部族」といった広い意味での「家族」です。
私たちは個別の教会の中だけでなく、世界の教会の神の家族とされた一員として、御父の前にいるのです。
御父は完全な父親です。
キリスト教において、「親を替える」という言葉がありますが、この言葉は「血縁の親から、霊における父なる神と母なる教会を親とする」ということです。
血縁の親は私たちに、良いことも悪いこともしたかもしれません。
ですが、御父は私たちを完全な父として愛してくださっているのです。
"さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちの血縁による父は、私たちに対して自分の価値観に則って私たちを教育しました。
しかし、霊による父は、私たちを聖化させるために教え戒められるのです。
神の家族はそのような完全なる愛を持つ御方を父と仰ぎ、互いに愛し合っていくのです。
そして、イエス様が身を置かれた聖家族は、神の家族としての家族観を知らない私たちが、どのように愛し合っていくのかが具体的に描かれているのです。
その姿は、家族の愛を知らない人にも父母の愛を示されているのです。
聖家族は主の御心を果たすために建て上げられ、ヨセフとマリアは神に服従して、主と共に生きました。
その家族に育てられたイエス様はあわれみ深く、優しい御方で、弱い者をお見捨てになりませんでした。
イエス様の口伝によると、私たちはお互いに愛し合った上で、神の愛が溢れた上での行いとして次のように言われました。
"あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。
このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」
こう言ってから、パウロは皆とともに、ひざまずいて祈った。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
まことに、聖家族もイエス様から恵みを受けましたが、家族の愛をイエス様に与えました。
だからこそ、聖家族は崇敬されるべきだと私は思います。
終わりに
長い文章を書きましたが、聖家族への信心一つを取ってもこれほどの量になります。
最後まで読んでいただいた方には感謝でいっぱいです。
私が教会の説教や学びで教わったこと、信仰書を読んで学んだこと、私の個人的なディボーションにおける聖書の読みをまとめました。
これでも、私はこの記事に納得していないほど、聖家族を愛しています。
そして、神の家族というものに、とても憧憬の念を抱いています。
聖家族をはじめとしたヨセフやマリアの崇敬心が分からなければ、歴代のカトリック教会の教皇が貴重な文書を残しています。
私たちキリスト者はそのような人たちの文献をもっと読むべきです。
私自身も少ししか読めておらず、理解が全く足りていません。
福音や神の愛を知るために、必要なことはなんでもしていきたいと思えるような信仰者へとなっていきたいものです。