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使徒の働き28章16-20節、30-31節のディボーションの感想

タイトルが長いですね💦

実は昨日の土曜日の更新がなかったのは、私たちの教会の礼拝で忙しかったためでした。
私たちの教会は独立伝道なので、教会に集まっている人によって礼拝時間を自由に変化させています。

これはお知らせ📢ですが、私たちの教会では毎週土曜日13:30頃から礼拝をしています。
オンライン礼拝、新改訳2017等のタグを付けてTwitterのスペースで配信しているので、興味のある方はお越しください。
名前は「竪琴音色キリスト教会」です。
私たちの礼拝では、現在は祈りと説教のみのオンライン礼拝となっております。

一通り話を終えた上で本題に入ります。
↓今回のディボーションメッセージはこちら↓

今回私が印象に残ったところは、「神の御心を祈る」ということでした。

実は私は祈るのが苦手な人間です。
毎日1時間祈る時間を持ってる!とか到底言えない人間です。
私と同じように祈ることが苦手な人はいるかもしれません。

最近は、祈ることがイエス様との交わりであり、とても大切なことだと思い知った出来事がありました。
ですから、定型文の祈りやロザリオの祈りと自由祈祷を織り交ぜて祈ることをしています。
プロテスタントは自由祈祷が強く、カトリックは定型文の祈りが強いので、それぞれの祈りに良さがあります。

これは、私の所属する教会の考え方ですが、教派に囚われず、それぞれの良いところを聖書を中心にして取っていく、ルターと似たような考え方を持っています。
プロテスタントとカトリックの信仰の一致を望む人間として、両者を一つにした信仰を持っているという感じです。

さて、祈りのことに話を戻します。
私もやってしまいがちなことですが、祈りの中で自分の私利私欲を祈っていないか?ということを私たちは常に吟味するべきです。

次のみことばを引用します。

[マタイの福音書 21:22]

あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

同じようなみことばは聖書の他の箇所にもありますが、総じて書かれているのは、「求めたものは与えられる」というようなことです。

そこで、少し読み違えると、「神様は自分の願い通りにしてくださる」という祈りをしてしまうのです。

確かに神様は私たちを無条件に愛してくださいます。
しかし、それを履き違えて、「自分の願いを何でも叶えてくださる!」と考えてしまうと、それは「ご利益宗教」とか呼ばれる信仰心になってしまうのです。
要するに、自分の望みを叶えてくださるから、神様を信じるという信仰の逆転現象が起こるのです。

これを正すとすれば、「神様を信じているから、神様は求めるものを与えてくださる」というのでしょうか。

でも、これだけでは足りません。
そこで出てくるのが、「神様の御心を祈る」ということです。

使徒の働きの中でパウロが祈っていたことは、聖霊による祈りでした。
聖霊は私たちをイエス様に導いてくださる助け手です。
ですから、パウロの祈りは聖霊によって神様、イエス様の思いに導かれていました。

ここで問われるのが、「祈りの動機」です。
私の祈りが「私利私欲」から来ているのか、「神様に喜ばれる理由」から来ているのかということです。

神様が喜ばれることとは何でしょう?

これは私の個人的解釈ですが、「愛」という動機をもって祈ることが神様に喜ばれるものではないかと考えています。

新約聖書を読むと、何度も神様が愛であることが分かります。

[コリント人への手紙 第一  13:3,13]

たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

私がどのようなことをしようとも、動機が愛でなければ何の役にも立たない、空しいものだと使徒パウロはここで語っています。

同時に信仰、希望、愛の中で一番優れているのは愛なのです。

ですから、神の御心を祈るというのは人を神を愛していくために祈るということに繋がると考えています。

だから、祈ることとは動機が愛であることが神様の御心と繋がると思いました。

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