見出し画像

マリア信心(崇敬)について

マリア信心について、疑問を持つ方は多いと思います。

私もまだ完成してはいませんが、聖母マリアについて、noteで記事を書いております。

以下が、取り次ぎの母としてのマリアを取り上げた記事です。
ちなみに、マリアに関する私が書いた記事は四つあります。

そもそもの話、マリア信心を疑問に思う方は、次の聖句を心に留めている方が多いと見受けられます。

[テモテへの手紙 第一 2:5]

神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

キリストが神との唯一の仲介者ならば、なぜマリアが取り次ぎをするんだ?と、思いますよね。
ですが、マリアはキリストに密接に関係する者なのです。

マリア信心について、聖書を読み込むと分かることが5点あります。

①マリアは「fiat(聖心がなりますように)」と、受胎告知を信仰によって受け入れた(ルカ1:38)

②マリアはキリストを胎の中に宿した唯一の女性である(マタイ1:21)

③マリアはシメオンから、キリストの十字架の死で心を剣で貫かれると預言された唯一の人(ルカ2:34-35)

④マリアは、イエス様の公生涯を最後まで見届けた(ルカ2:51、ヨハネ2:1、マルコ3:31、ヨハネ19:25)

⑤マリアはイエス様の昇天後、使徒たちと共に祈っていた(使徒1:14)

新約聖書の時代から現代に至るまで、このような体験をした信仰者はいるでしょうか?

そして、私がマリアが取り次ぎの祈りをされる基となったみことばは、ヨハネの福音書の「カナの婚礼」の箇所にあると考えています。

それは、マリアが主にぶどう酒のことで戒められた後、「あの方(イエス様)の言うことは何でも聞いてください」という宴会の世話役に言った一言です。

[ヨハネの福音書 2:1,2,3,4,5]

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

なぜ、この一言が聖書にあるのか、不思議ではありませんか?
一見、何の意味もない言葉のように思えます。

それから、イエス様は奇跡を行われました。

[ヨハネの福音書 2:6,7,8,9,10,11]

そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

マリアは私たちの祈りを聞き、イエス様に「この者の言うことを聞き入れてください」と願う者なのです。

聖ヨハネ・パウロ二世は『希望の扉を開く』の中でこのように語ります。

神の母への真の信心こそが、実はキリスト中心的であり、いやむしろ、この信心こそ、三位一体の神秘、ならびに、受肉および贖いの両神秘にきわめて深く根ざしていることを

希望の扉を開く・P260
聖ヨハネ・パウロ二世
新潮文庫

この聖ヨハネ・パウロ二世はキリスト中心主義を重視して、マリア信心から距離を取ろうとした人です。
しかし、ある聖人の影響を受け、マリア信心を持つに至りました。
ですから、カトリックでは、伝統的にマリア信心を受け継いでいるから、マリアを大切にしている人が全てではなく、聖ヨハネ・パウロ二世のようにマリア信心を疑問視して探求した結果、神の母聖マリアを受け入れる過程を歩んだ人もいるのです。
そのため、この人の言葉には重みを感じられます。

聖ヨハネ・パウロ二世は『希望の扉を開く』以外にもマリアのことについて言葉を本にして残しています。
もし、関心があればお読みいただければ、またマリア理解が深まるのではないかと思います。

神の母聖マリアは、キリストの十字架の死の直前に、使徒ヨハネのことで「ご覧なさい、あなたの息子です」と言われました。

[ヨハネの福音書 19:25,26,27]

イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

これは、今日の教会における神の家族(オイコス)の型です。

それで、マリアは天に召されるまで、使徒ヨハネと共にいました。

マリアの話はこれでお終いです。

余談ですが、仮に聖書本文のみから、信仰理解を深めるならば、致命的な事柄にぶつかります。

それは、洗礼(バプテスマ)という、カトリック・プロテスタント両派のサクラメントについてです。

聖書には、洗礼について、「滴礼(てきれい)」と「灌水礼(かんすいれい)」について書かれていません。
唯一、「浸水礼(しんすいれい)」のみ描写されています(エチオピアの宦官が伝道者ピリポから受けたバプテスマ等)。

聖書のみでは、「浸水礼」以外の洗礼は無効になるということになるのです。

では、その二つの洗礼方式は無効なのか?

『使徒教父文書』にはこのように書かれています。引用では本文を少し省略して、要点だけまとめています。

洗礼については、次のように洗礼を受けなさい。
—流れる水によって、父と子と聖霊の名をもって洗礼を授けなさい。
—流れる水がない場合には、他の水で洗礼を授けなさい。
—どちらの水もない場合には、頭に水を三度、父と子と聖霊の名をもって注ぎなさい。

使徒教父文書・P33
荒井献
講談社文芸文庫

このように、聖書以外の箇所から、キリスト教において、一番重要とも言える洗礼が取られています。

ですから、みことばを土台にして、使徒や預言者、聖伝と繋がって、今の教会があります。

マリア信心においても、初代教会の使徒たちの時代から、存在していました。

これら全てを総括して、私はマリア信心を受け入れます。

最後に、礼拝では使徒信条が唱えられます。
使徒信条においては、「おとめマリアから生まれ…」という言葉が唱えられています。

ニカイア・コンスタンティノポリス信条を唱える時でも、「おとめマリア」が登場します。

おとめマリアの聖霊によるキリストの受肉は、たった一回の特別な出来事なのです。

そういう意味で、神の母聖マリアは決して、ただの罪人の一人と同じにすべきではないと、私は思います。

いいなと思ったら応援しよう!