マルコの福音書10章46-52節のディボーションの感想
↓今日のディボーションメッセージはこちら↓
今日は祈りの話が語られていました。
その中で興味深いと思ったのは、ポーズだけ祈っていても、その祈りが信仰から来たものか、宗教心から来ているのか分からないということでした。
教会堂の中で前傾で膝をついて泣きながら「主よ、主よ」と祈っていても、それが本当に心の苦しみを吐き出しているのか側から見ても分からないのです。
確かにそうだなと思います。
私たちは見た目で祈る姿勢はとっていても、そこに切実さがあるかは神様にしか分からないし、教会堂の中だから祈っている人もいるかもしれない。
そう考えると、家の中で、家族にしか見えない場所で祈ることが望ましいように思えます。
このようなみことばを思い出しました。
そして、もう一つ、
同じ箇所からの引用になりましたが、祈りに関してとても重要なところだと思います。
私はとある小教区のカトリック教会に、家族と2人で通っていましたが、ミサに集中するために2人で別々にですが、ロザリオで祈っていたら、「敬虔なフリをして教会に入り込もうとしている」と司祭からイチャモンをつけられた上で嫌われ、色々な嫌がらせを受けて教会を追い出されました。
私たちもその教会に留まっていたら信仰が死んでしまうと思って教会から脱出しました。
だからといって、カトリック教会そのものに対する恨みつらみがあるのではなく、その教会に問題があっただけで、他のカトリック教会は良い教会だと思っています。
実際にミサには与っていませんが、近くのカトリック教会は明るくて良いなと、一度ミサに参加したいと思ったりもしています。
人に見てもらおうと祈っているわけでもないのに、私が祈っている姿を見た人から偏見で見られて嫌われたりするのも恐ろしいことです。
私がやりたくないと思うことが、話題に出ました人に見てもらうための祈りです。
とにかく、私は祈りに対して真剣に向かい合いたいです。
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