私の「天才についての考え方」についての話。

一般的に、人は何かを失うことで何かを手に入れるのが通説になっている。お金を失えば物が手に入る。勉強を捨てれば遊びが手に入る。これは常識。しかし、お金や勉強を捨てるのは自分が能動的、つまり意識してしていること。しかし、中には「元から無い箇所が代わりに他の場所が異常に強くなる」というトレードも存在する。例えば目が見えない人は手の感覚が非常に強くなり、点字が読めるようになる。鼻が効かない人は感覚が研ぎ澄まされたりする、などだ。ない部分を補うかのように別の場所がありえない程の急発達を遂げる。そういうことがこの世界にはある。

なんでこう長々と話をしたかということを説明すると、僕も「ある場所が欠けている代わりに他の部分が異常に強くなった人間」だからだ。子供の頃にIQテスト?のようなものを受けさせられたことがある。そこでの診断と脳波測定、解析でわかった結果が、「花浅葱さんは右脳が弱っている代わりに左脳が異常に発達している。貴方の出来ることは0か100しかない。出来ることは出来るが出来ないことは全くできない」らしい。右脳は感情や芸術の分野を担当していて、左脳は論理思考・理性などを担当している。つまり、僕は感情を100%で出すことが極めて難しい代わりに物凄く論理が強い、そういう人間になった。最近絵を描き始めたのは、実はリハビリのような部分もあったり。楽しいの方が上回ってるのはそう。

論理が発達していると面倒な事がかなり起こる。脳が発達し始めた頃から明らかに自分自身を客観視するようになった。立ち振る舞いやどんな表情をしているかを常に自分に観測されている気分。配信している時に画面に向かって話しかけ続けている自分を見てガチの嫌悪感を抱いたこともあった。
また、論理が発達しているので、馴染めているようで周りに馴染めていないことも少しずつ起こるようになった。同感を少しずつ「やらなくちゃ」でやるようになっていくと同時にテストの点数は上がり続けた。周りからは頭はいいのに共感の仕方が変だなんて、私とは生きてる世界が違うんだ、とか、"あの人は生きてる屍みたい"なんて言われ始めた。とにかく悲しくて誰かに相談したくても僕自身が誰かに相談しようとするのを理性が止めてくる。助けなんてない。こうして僕は孤高の天才もどきになっていき、母親の期待により大量の習い事も入れられ、僕は「天才」にならなきゃ生きていけないんだ、と思うようになり、「天才」という像に固執するようになっていった。

そんな1人の少年は、次第に「インターネット」という世界を知り、次第に入り浸るようになった。ここでは能力だけの世界。素晴らしいものを作れば誰かに評価される。生きていいって思える。僕よりもっと天才がいる。こうして孤高の天才もどきは、インターネットの世界で天才と呼ばれたくないがために凡人になりすましはじめた。ちょっとボロが出てるけども。

だからどうか、天才じゃない花浅葱と平等に接してほしい。僕に憧れないで。それはきっと貴方にとっても私にとってもしんどいことだから。配信でも優劣をなくそうとしてるから。どうか対等に。

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