低温の優しさもある、という話

本当の意味で人に優しくするってことについて、僕の考え方を書くね。

昔(だいたい小学4年)くらいから、「○○は優しいね」とずっと言われてきた。実際この頃は同級生に優しく寄り添っていたりおせっかいを焼いてたから(今思うと結構おせっかいだなあ…)優しいと言われるのには納得してた。というか優しいって言われるのが生きがいみたいな部分もあったと思う。誰かに頼られるのは大好きだったから。ずっと人に優しく、温かく接したかった。

ただ中学二年生に大きな出来事(ここでは話さないけど)があって以来、人に優しくすることがどうにも怖くなってしまって、しばらくは誰彼構わず攻撃してしまうようになってしまった。優しくすることで依存され問題が起きるのがどうにも怖くて仕方なかった。恐怖は最も質の悪い呪いで、一度恐れてしまったら回復するのは難しい。自己防衛するのに必死になって、生きることに必死になって。人に優しくする余裕なんて全くなかった。
中二のうちに人に攻撃する癖は治せたからよかったものの、誰かに優しさをかけることに少し、抵抗のようなものが生まれた。「この人に優しくすることがおせっかいになっていたらどうしよう。」「優しさに付け込まれたらあの時よりもっと苦しい思いをするかもしれない。」そうして僕は人に優しくするのをやめた。つもりだった。

高校一年生の冬あたり。いつも通り配信してた時に(確かテラリアをやってたような気がする。)視聴者に「花浅葱さんは本当に優しい人だね」って言葉をかけられた。

………..その言葉がうまく自分の中で呑み込めなかった。

優しくするのはあの頃から誰に対してもしていなかったつもりだったし、ましてや他人に優しいなんて言われる気なんて微塵もなかったわけだし。言われた瞬間は少し恐怖を抱いたまであった。そんな風に考えている間にも視聴者は続けた。「花浅葱さんは同感してくれることは少ないしほとんど無いけれど、アドバイスを聞いていると私のことを考えてくれるんだって思う。」
最近ではこんなことも言われた。『「助けたいか否か」を考える自己と、「助ける"べき"か否か」を判断する自己。花浅葱は助けるべきかどうかを考えれるようになっているから冷たいように思われるかもしれないけど大丈夫。』昔のように共感したりすることはないけれど相手のことを想っていたことが伝わっていたのは、なんというか、嬉しかった。

手を差し伸べる優しさと、自分で立てるように手伝う優しさ。どちらが優れているとかどちらが劣っているとかの話ではなく、誰かがこけないように、もう一度走り出せるような、補助輪のような役割になれたら。ヒーターのような温かさではなく、カイロのようなゆっくり効く優しさをこれからも配信で届けることができたらいいなと思う。


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