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松前城下の寺町。

円空は1666年春の彼岸頃(旧暦2月25日頃)、松前に到着したと想定した理由は前回書きました。
この頃の松前藩の参勤交代の出航の際には、神主が吉日を選ぶ所から始まり、出航日には対岸の三厩と狼煙で連絡をとり合い、小舟から大船に乗り換えての大変な出発だったと「福島町史」には書かれています。

現在の松前の道の駅横、円空が降り立ったであろう場所に、福山波止場跡が残っています。

道の駅にある説明板
橋の上から見えました
木杭跡から見える津軽半島


この波止場跡は明治8年頃、松前城が解体された際の石垣を利用して造られたものなので、残念ながら円空は歩いていません。
しかし、当時はここから松前城(福山館)に至る道が続いており、北へ100m程の所に、沖の口奉行所(現在、跡地あり)、その先には松前城(当時の福山館には天守閣は無かった)も見えてきます。

テーマパーク松前藩屋敷内
沖の口奉行所

松前藩は沖の口奉行所で渡来する商船・旅人から役金を徴収していたので、円空も準備してきた役金を収め、問題なく通過しただろうと思います。

福山館の背後には15余の寺社があり、寺町を形成していました。(現在は龍雲寺・阿吽寺・光善寺・法幢寺・法源寺・松前藩主松前家の墓所が残るのみ)

我が国の山岳信仰は平安時代の中期に役小角(えんのおずぬ)によって大和大峰山に展開され、ここから熊野、出羽三山(羽黒・湯殿・月山)へと発展し、特に東北地方の山岳信仰は中世においては、天台、真言の僧侶、修験者(山伏)等が住民の山岳信仰を宗教色の強いものに作り上げて行った。 さらにこの出羽三山を中心とした東北の山岳信仰は北上を続け、(略)
海を越え蝦夷地へ進出する機会をねらっていた。

 津軽相内の安藤盛季が南部氏との戦いに敗れ嘉吉三年(一四四三)蝦夷地に逃れた際には永善坊道明法師や阿吽寺(あうんじ)等の真言宗の僧侶や修験者も同行し、これらの人達が蝦夷地に定着する

「福島町史」より
現在も残る阿吽寺
屋根の上に宝剣が突き刺さってるとか⁈
阿吽寺の住職は、本尊の不動明王像を
携え蝦夷地へ渡った‼︎

蝦夷地の宗教が修験者による、山岳信仰を主体としていたならば、円空は先ずその修験者達の集まる寺町へ向い、修験者同士情報交換をし、暫し宿泊できる場も得たのではと考えました。


ここで『福山秘府』(松前藩関係史料。1776年松前藩主の命を受け1780年完成)より、円空が来る年と前年の記録を要約します。

【1665年】
6月11日 松前藩9世藩主の室 逝去
7月5日 松前藩9世藩主 逝去 行年27歳
9月27日 後を継ぐ7歳の藩主は、筆頭家老の蠣崎蔵人と共に幕府参向の為松前を出航
10月22日 江戸へ着く
11月15日 将軍に謁見し藩主となる
【1666年】
4月15日帰国
冬中、東風吹かず米が入らず飢饉となる

この他にも、上ノ国で不祥の兆しが見られた事も書かれており、円空がきた頃の蝦夷は疲弊していました。

※上記にある家老の蠣崎蔵人は、後に円空に彫仏を依頼するのですが、円空が松前に居た頃にはまだ江戸から帰藩していない為、まだ顔は合わせてはいないと推定。

松前町には、円空の像を御神体とした白山社がありました。創建年は円空の来た1666年ではないかと「松前町史」に記されいます。

白山信仰のもと修験を積んだ円空が彫り残した像を、後に修験者達が御神体とし、祠を造り白山社と称されるようになったと想定しYouTubeは作りました。
しかし、円空が自ら祠を作り白山社としたとも考えられます。

旧道沿いに今も鎮座する熊野神社
現在、白山社はこちらに合祀

また、現在合祀されている、同じ松前町の熊野神社で彫仏したから、今に至るとも考えられます。
どちらにせよ、円空の彫った仏像は大切に現在も祀られています。



最後までお付き合い頂きありがとうございました。🙇

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