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円空、松前から上ノ国をどう歩く?
円空が蝦夷に渡り、歩いた和人地(下図参照)内の、松前から上ノ国までの道事情はどんなだったのでしょう。前回の続きの前に見てみたいと思います。
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和人地
江戸幕府は将軍代替の度に、日本各地を巡見していたとの事。円空が来る約30年前、1633年の松前藩領内の記録を見てます。
※因みに、この時は徳川家光の代替時。
七月九日松前に到着して藩庁で事情説明を受け、
十日江良町止宿、十一日比石(上ノ国町石崎)止宿、十二日上ノ国止宿
・7月9日 松前 到着
・7月10日 江良町 止宿
・7月11日 比石 止宿
・7月12日 上ノ国 止宿
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Wikipediaより
上図と合わせて見てみると、
・松前=大館
・江良町=禰保田館と原口館の間
・比石=比石館 (現在は石崎)
・上ノ国=花澤館
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Googleマップで距離を見ると、
・松前から江良町=20km
・江良町から比石=20km
・比石から上ノ国=17km
松前から上ノ国の間の現在の国道は、断崖絶壁の上や、山が迫って来るような山越え谷超えの道もあり、当時を偲ぶと距離だけでは計れませんが、
幕府の巡見使達は、約20kmの距離を、馬足で1日、トータル3日で到達していた事が分かります。
ちなみに、松前藩の参勤交代では、松前から江戸まで、26日〜40日で参向したとか。(1日約36km!)
修験者円空ならば、松前から上ノ国まで馬足と同じく3日もあれば行けた筈ですが、円空は"行"をしながら歩いていたと思われます。
ここで、木喰戒の実践例(以前の記事はこちら☟)を参考にしてみたいと思います。
その中の「島渡り」の"行"で蝦夷地を選び、そこで「遊行回国と行道、一所不在」と「作法」の"行"を実践していたと考えました。
「遊行回国」とは、布教や修行のために各地を巡り歩くこと。
「行道」とは、経を読みながら歩くこと。
「作法」とは、千体仏・万体仏・神像・自刻像を彫ること。
円空は蝦夷で、経を読み布教しながら歩き、山を越え谷を越え、時には滝に打たれ修験しつつ、自分の思うところで神像を彫り、奉納したと考えると、3日で行ける距離をどのくらいの期間を要したのでしょう。想像するしかありません。
※円空の蝦夷に残した背銘から逆算し、ひと月程と考えYouTubeは作っています。
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ここから前回の続き
円空は、松前で1体の神像を奉納した後北上し、次に現れた民家70軒程の大きな集落であった江良町で1体彫ります。
それについては「松前町史」の円空が来た年(1666年)を見ます。
この年 馬形観音堂新たに建つ。
佐々木家記録によれば観音堂の御神体は円空作十一面観音で丈け(高さ)6尺余(約1.82メートル)であるという。
円空の来た年に新たにお堂を建てたと記されており、これは円空像を祀る為、また保護する為に建てられたと推測します。
佐々木家記録とは、馬形社神官である佐々木主水によるもので、
円空作十一面観音、木像一体、丈け六尺余、往古より当社に在来候
堺比呂志『円空仏と北海道』より
蝦夷の中で最大だった1.82mもの像を見て、民衆は驚き、円空は噂の的だったと想像します。未開の地で次第に民衆の心の拠り所になった事は間違い無いでしょう。
その立像は神仏分離令の際、焼失してしまいます。その為、蝦夷に現存する立像は2体のみとなります。
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アイヌのチャシにも似てる!
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麓に民家が見えます
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アイヌに陥とされた、
12館中10館の一つ
ここから1.1km離れた比石(現在の石崎)の石崎八幡神社に円空像は現在も御神体となって祀られています。
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とされる24社のうちの1社
石崎八幡神社
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円空像は民衆に守られ
約360年間心の拠り所に!
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現在は水量が乏しいですが、
円空はこの滝に打たれながら
彫仏したと伝わる
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木ノ子稲荷神社に祀られ
現在は木ノ子光明寺で
大切に祀られていました
江戸時代の旅行家の菅江真澄が、円空より約100年後に、ここ木ノ子を過ぎて、比石(石崎)方面に歩いた記録があります。
木ノ子を過ぎて志根呉(シネゴ)の野原を行く。
この野原には狐や狢(ムジナ)が多く
日が暮れると妖怪が現れ人を驚かすことがあるのでシネゴの化者と人は恐れていた。
このような所だと踏まえ、木ノ子の伝承を見てみます。
「明治期まで医者が居なかった為、眼の悪い人は円空仏の目を、胸の悪い人は円空仏の胸を脱脂綿で撫で、それを持ち帰り土瓶に入れ煮沸し、悪い箇所を拭くと治った」と言うもの。
現実味が増します。
この後、花澤館のある上ノ国へ向かい、前回の記事に繋がります。
今回のYouTube 第一章 松前から上ノ国の内容は以上となります。
次回は、江差から熊石までの予定です。
長らくお付き合い頂きありがとうございました。🙇