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円空、和人地からついに蝦夷地へ!
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蝦夷地に占める和人地の変遷図
この図は、円空が来た3年後1669年(アイヌの蜂起があった年)の蝦夷地に占める和人地を示しています。この頃の和人地は、まだ道南のほんの一部でしか無く、蝦夷の人口はアイヌが絶対的優位だったようです。
蝦夷地と和人地の間に関所(番所)ができるのはそのアイヌの蜂起の後なので、和人地とはいえアイヌとの混住もありました。
上図にある和人地の家の軒数を見てみると(『津軽一統志』の1669年の記録)、
・相沼内 : 家40軒
・熊石 : 家80軒
松前から日本海側を北上してきた中で、熊石が一番大きな集落だった事に、驚きます。
※今回のYouTubeでは、円空の像が残る熊石を、和人地の最北の地としていますが、厳密には更に北に"関内"という家20軒の集落もありました。
上図の相沼内から北の斜線部は、和人地の延長部分なのでアイヌの人数も多かったのではと思います。
アイヌ語の地名
アイヌ オマ ナイ
相沼内(あいぬまない)
Aynu-oma-nay
アイヌが住んでいるところ。
関内、熊石、相沼の三か所に塞門を築き西の和人地の入口を防禦する体制をとった。
これは後の相沼、熊石番所と異なり、あくまでこの乱に対する備えであった。
この乱の際、(略)松前藩に対し協力的態度をとり、藩もこれら日本海沿岸のアイヌの族長説得のため、相沼内の族長トヒシシを派遣し、このトヒシシの説得が成功し、日本海側は戦乱を見ることがなかった。
その当時、前掲書によればトヒシシはアイヌの代表者として相沼内に居住し、その勢力の範囲は関内まで、(略)と記録されている。
この乱とは、1669年のアイヌの蜂起、シャクシャインの戦いの事。
円空が来た1663年には、アイヌの族長も相沼内に住んでいた事が分かります。
円空は、その相沼内(現在は相沼町、相沼内川にその名が残っています)に1体彫仏しました。
その像を御神体として祀っていた磯崎神社の創建は不明ですが、磯崎神社と改称されてからは"旧観音堂"と呼ばれていたようなので、元々は円空の像を祀る為にお堂が作られ、"観音堂"と親しまれていただろうと想像できます。
この像は、かなり摩耗が激しいのですが、それは流行り病が出ると、病送りにと縄で縛られ相沼内川まで引いて行かれたり、子供達が自由に持ち出し遊んでいたからだと言います。
長い間、医者も居ない、遊び道具も無い地で、どれだけ民衆の心の支えになっていただろうと思います。
現在は、相沼八幡神社に合祀され、円空仏も安置されています。
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生い茂る草花に感動
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北山神社
こちらに祀られている円空仏は、近くの洞で彫った像だと言われています。
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約100年後に来た旅行家の菅江真澄がここで円空仏を見、この洞に何日も住み何体も彫仏したと記しています。
日本海側の和人地では最後の像となる92cmの観世音菩薩立像は、家80軒の大きな集落だった熊石で彫られ、現在も同地の根崎神社に祀られています。
※蝦夷で彫った立像は江良、上ノ国、ここ熊石の3体のみ。うち現存するのは2体です。
そして、ついに関内集落を通過し蝦夷地へ入ります。
関内までの和人地には、馬足叶う道があったようですが、
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現在のような海沿いの道は無く、
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山を越え、谷を越えて
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辺りへ辿り着きます
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「えみしのさえき」に記しています
円空は"この辺り"を越えて太田山に向かうのですが、菅江真澄はその約100年後に太田山に登り、円空の像をたくさん見た後、南下し"この辺り"からほど近い、ひらたないに辿り着きます。
ひらたない(久遠郡平田内)についた。これから行くさきの山中には、周囲七、八寸(20センチ以上)もある太い虎杖が道をふさいで高く茂り、羆(ひぐま)がすむといって行きかう人もまったくないので、ここの磯舟にのって行こうとしたが波が荒く、きょうも沖をゆく船が一隻難破したなどと、人々が言いさわいでいる始末なので、心細く、どうしょうもなくて、ようやくささやかな家があるのに頼んで泊まらしてもらうことにした。
八雲町史より
このような「羆(ひぐま)が住むと言って行き交う人も全くない」所を、修験者円空といえども、アイヌに案内を頼んだだろうと思います。
それは、前回書いたように蠣崎蔵人の手配だった可能性もありますが、アイヌにも隔たりなく接したであろう円空に対し、アイヌ自ら案内役を買って出た可能性も考えられます。
「日が暮れる前に、羆(ひぐま)の住む地を通り抜けたいと、円空とアイヌは先を急ぐ」とした所で今回のYouTubeは終わります。
江差から乙部、熊石。熊石から蝦夷地に足を踏み入れた円空を辿っています。
北海道の日本海の美しい景観と共に、どうぞご覧下さい。🙇
このあと、円空は太田山(太田神社)へと辿り着き、YouTube円空旅の1作目に続きます。1作目、第三章はこちら☟
最後までお付き合い頂きありがとうございました。🙇