東洋思想十講 人物を修める 安岡 正篤
第一講 序説
重役たる者は忙しいということを口にしていけない。忙しいと、文字通り心が亡して、大事なものが抜けてしまうからであり、重役としての務めは果たせません。
人間、先を見通すことができて、初めて迷っておる者・目先の利かぬ者に対して教え助けることもできる。民衆や大衆というものは、みな目先のごたごたしたことに振り回されて、先のことなど考えない、わからない。その民衆に代わって、十年、百年先を見通して大計を立て、彼らの生活をたすけて幸福にするのが大臣の役目。昔からシナでも日本でも大臣のことを**相と言う。
物事というものは、大きな問題、困難な問題ほど、やはり長い目で、多面的に、根本的にみてゆくことが大事。人の上に立つ人ほどこれは心得なければならぬことであります。
第二講 学と道
「民は之(こ)を由(よ)しらむべし」とは、民衆というものは、目先の問題や自分にとって切実な利害にかかわることには敏感であるが、先々のことや複雑なこと、あるいは教理というようなことは、なかなか理解できない。だから民衆には、理屈を説明するよりも、民衆が信頼し、敬服して、指導者に任すようにしなければならぬというのであります。
道徳を簡単に説明すると、東洋では、宇宙人生というものを一貫して営んでおり、これがなければ宇宙・人生は成立しないという最も本質的なものを、名づけて「道」と言っておる。人間は自然-天の一部ですから天人であり、天に基づいているごとく道に基づいている。・・・(中略)・・・天人一体の考え方に立てば、人が心を持つということは天が心を持つということになる。名高い宋代の名儒 張横梁(ちょうおうりょう)は、「天地のために心を立つ」と言っている。この語に三句続いており、まず「生民のために命を立つ」、そして「往聖のために絶学を継ぐ」、そこで初めて「万世のために太平を開く」。
この宇宙生成の本質、天地人間を貫くところの創造・変化、造化の本質原理である「道」が、人間を通じて現れたもの、それを「徳」と言う。道と徳を結んで「道徳」である。
徳は人間が営む社会生活を通じて現れるものであるから、それはやがて経済、政治、教育などの社会活動=「功」になってまいります。
功はあらゆる人間活動を動かしてゆく「力」なのです。
また道は、人間のいかんにかかわらず、自ら作用を営む。それは驚くべき創造であるとともに大いなる変化でもある。これを「化」という。子供が大人になり、老人になる。これが化であります。道は万物を化する。「道化」です。
徳は社会活動を通じて現れるわけですが、その最も本領を発揮するのは教育であります。教という字は人が他のお手本となって後進を導くという意味。教師というものは言葉や技術で導くのではなくて、まずその人の徳がその人に接するものの手本にならなければいけません。と同時に教えられるほうもまた、よく人に聞くという態度が肝心であります。
これに対して産業を興したり、学校をつくったりする、つまり「功」は、いろいろ生活活動を促進するから、「利」であり、「勧」である。ここから勧業という熟語が生まれてくる。
最後の「力」の本質的作用は何かというと、これは「率」-ひきいるということです。とにかく行為というものはすべて道・徳から出てこないと本当ではないということであります。
そうして人間社会が道に則って発達していくと、生活秩序が理法にかなって、「正」しくなる。これを治まると言います。
人間の手、技を加えると政-政治になる。だから政治の根本には道がなければなりません。力で引っ張ってゆくと、動あれば反動ありで必ず乱れます。
根本の道をもって人間民衆を率いていく人を「王」と言う。王は徳をもって人を導き、人間を謙譲ならしめ、人間生活を治めてゆく。
これに対して武力をもって率いてゆくのが覇者であります。王道・覇道は東洋政治学の根本範疇です。
人の人たるゆえんは、実に「道徳」を持っておるということ。「敬」するという心と「恥」ずという心になって現れる。
愛というものは、女性-母の特性。
子供というものは、決して愛だけで満足するものではありません。本能的に敬の心を持っておりまして、子供はその敬の対象を親に求めるわけであります。子供の父親に対する敬の本能的現れ。そういう点から言って、父親というものは子供に対してあまり口やかましく言わぬほうがよい。理想像として子供のイメージを壊さぬよいな、子供が自らに対して敬の心を抱くような、そういう態度、言葉、振る舞いがより大事で、必要なのであります。
人間は敬する心を持つと、自ら敬するものに少しでも近づこうとする気持ちが起こってくる。これを「参」-さんずる、あるいはまいるという。これが更に進むと、側近く仕えたくなる。いわゆる「侍」-はべかるとか「候」さぶらうというのがこれである。日本語の「参った」は、相手を敬の対象として、己の理想像として礼賛する。人間的尊さ・精神的偉大さを認識した語。もっとゆかしいのは、勝負をして負けたとき、日本人は「参った」と言います。自分が負けながら、勝った相手を敬しておるのです。日本の民族精神がいかに武家時代において発達したのか、立派な証拠の一つです。
命までも捧げたくなる「まつる」「たてまつる」といいます。この思想・精神が奈良朝から平安朝へかけて発達し、鎌倉以降武士道となる。
「敬」の心が主体となって、一連の精神が発達し、そこにつくり上げられたのが宗教である。人間は敬することを知ると、自ら恥ずるということを知るようになる。そこからつつしむ、いましめる、おそれる、修めるといった心理が発達する。これが宗教に対する道徳の本義です。道徳の中に宗教があり、宗教の中に道徳がある。人間教育、家庭教育において、物事の根本概念、歴史概念というものを一応知っておかないと、せっかくの真理、思想、学問が通じないということになります。
日本人は酒を入れる器のことを徳利というが、人と一緒に飲んでこそ楽しい。人と喜びを分かつものであり、共に楽しむ利である。利は利でも徳を表す利である。
事業でも力づくでやっておると、いずれ競争になって困難になる。事業が人間性から滲み出た、徳の力の現れであれば、これを徳業といいます。事業家は進んで徳業家にならないといけない。その人の徳が、古に学び、歴史に通じ、いわゆる道に則っておれば、これを道業といいます。東洋人は事業だけでは満足しない、徳業にならないと満足しないのです。現代の悩みは事業が徳業にならないで利業・機業になってゆくことです。
宇宙・人生の創造・変化、限りない営みをつきつめてゆくと、最後は根本原理に行き着きます。天地・自然の創造・変化というものは、無限の可能性、創造力(クリエイティブ・パワー)を含蓄しておりまして、その創造・変化を可能ならしめているのが生の活動力(エネルギー)であります。それは何らかの形で外に発現すると同時に、四方に分派し発生して、進展してゆくのです。このように分化・発展してゆく力を「陽」といいます。ところが創造というものは陽の力だけでは成り立たないのです。それは分化すると抹消化して、生命が薄れるからです。分化・発展は混乱になり、破壊になる。そこで一方において分かれるものを統一し、それを根元に含蓄しようとする働きがある。その働きを陰といいます。この陰と陽とが相まって初めて健全な創造が行われるのである。
易は変化と同時に発達・連続を説く永生の理論。陰が根本で、陽は枝葉花実的。陰だけでは発展ということがありません。陽が活動し代表になって、それを陰が裏打ちし内に含んで、初めて両方が存在する。陰陽の割合は、陰が51%、陽が49%ぐらいであるのが一番適当である。肉体・生理は、酸とアルカリの相待性活動でバランスを保っておる。その割合はアルカリが51%で、酸が49%、つまり弱アルカリ性を保つということが生理の一番の原則である。それが逆になって酸性化すると病気になる。昔から酸の字をいたむと読む。物が悪くなって腐る場合のいたむです。
徳と才とが相まって共に偉大な発達をしている人を「聖人」といい、反対に才徳共に空しい人を「愚人」といいます。常人の場合は、徳が才よりも優れている人を「君子」といい、才が徳よりも優れている人を「小人」といいます。
人間は知能と情操という二つの相対的要素を持っていますが、情操が陰で、知能が陽です。知の人はどうかすると人との関係においてうまくゆかなかったり、嫌われたりしますが、情の人は反対に人から好まれます。人間としては知の人より情の人の方がよいと申せます。
常に内面的・道義的修養につとめ、優雅な趣味を持たないと長続きしません。大衆・民衆というものは陽原理的なものですから、放っておくと必ず利己的・闘争的になって、やがて混乱し、破壊に陥ります。幸福に導くのが政治の責任です。
省は「吾日に吾が身を三省す」と論語にもあるように、かえりみると同時にはぶくという意味の字であります。民衆生活をかえりみて、悪いところはぶいて整理・統一する、これが官庁や役所の仕事。
「省」は国家にとっては政治の要諦であり、個人にとっては最も大事な生活原理。反省して、悪い所を思い切って省くことが必要。それをやらぬと、文明が繁栄によって亡びることは歴史が証明しております。人間の歴史分化の長い間に生じた原理・原則。どういうふうに省するか。
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