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気付いていないことに気付いていない

10代後半から20代は、よく絵を書いていた。
連日鉛筆デッサンをしていた時期もあり、今でもふとデッサンをしたいと思うことがある。
元々デッサンは下手の部類で、それがコンプレックスにもなっている。
ということで2年前にふと思い立ち、写真模写を始めることにした。
気合いを入れ過ぎると始まらないので、気軽に小さなスケッチブックにインターネットで探した著名人の顔写真を模写することを始めた。
下手な上にブランクがあり最初は散々な出来。残しておくのも憚られるようなものしか描けなかったが、課題でもなく自由にやればいいのだから、決まりを設けずに気長にやることにした。

始めた当初、これは頑張った!と、満足の模写ができた。(一度目)
その後も引き続き他の写真を数枚描くと徐々にうまくなっていく実感があった。
そこで最初に満足した絵を眺めてみると、なんてこった…。
人間なのに血が通っている印象がない。量感がなくぺらぺら。そもそも全然人間らしさが感じられない。
これは自分が同じ手で描いて、同じ目が見たものなの?と自分が一番びっくりしたっつーの。

そこでもう一度、同じ写真を描いてみる。(二度目)
きた。これだわ!前のヤツは嘘、本当はこれね。と、今度こそ納得できた。
ここで、しぶとくやると上達することを知ったため、しばらく時間を置いてもう一度同じ写真を描いてみる。(三度目)
すると、更に上達していて、より人間らしく、何よりこれは誰々ですよと付け加えなくても対象の人物を表現できた気がする。

不思議なもので、最初のぺらぺら画を描きあげた時の方が満足感は高く、三度目では明らかに上達しているにも関わらず、まだ描ききれてないんじゃないか?もっと先があるはずだという気持ちがあり、満足というより静かに納得するような心境。

さて。
描き直しする度に一度目の絵を見直すと、なんでこれで満足できたのかが分からない。しっかり見て、しっかり描けているつもりだったのは一体なんだ?と。そして、気付いていないことに、気付いていなかったことに気付いた。(ややこしぃ)これってもしや創作以外のことに関しても?と全方位的に自分を疑う気持さえ湧いてくる。

気付いていないことに気付くって本当難しい。なんせ気付いてないんだからさ。(そりゃそうだ)
長いブランクを経て模写をしたことで、気付けていないことに気付く方法を少し掴んだ。
思考だけで分かっていてもダメ。技術、体だけで理解していてもダメ。
先ず、気付けてないものを形にするって不可能じゃないですか?
第一歩、どうしたら気付けるのか。
思考したことを一回物質的に吐き出して、それを見てまた思考して、さらに動きを通して物質的なものとして出す。
このくり返しによって、気付けてなかったことに気付きやすくなるんじゃなかろうか。
その過程で恥ずかしいと思って止まったらアウト。恥はかくもんだなと。

思考と技術っていつでも対で自転車を漕ぐようにして進歩していくものなんじゃないか。
思考⇔表現、詳細⇔全体、と違う領域を行き来させることで、理解は深まり、形はしっかりしてくる。
中にはこんなまどろっこしいことをしなくても理解したり創造したりできる天才もいるとは思うけど、たいがいの人はこのくり返しを面倒くさがらずに行なうのが進歩への一つの道なのではと思う。
気付けてないことに気付こうなんてしなきゃ良いじゃん。現状問題なければ満足じゃない?という考えの人もいるだろうし、それは否定はできない。
けれど、気付けていなかった領域に一度気付いてしまうと、自分の視野の狭さを自覚せざるを得ない。
もう一つ大きく深い視野はどんなものが見えるのかなと興味が湧いてくる。
ならばどんどん視野を広げよう!となるかというと非常に怠惰な自分もおりまして…。
やー、ちょっと休んでまた気が向いたらね。と。
そこでごりごり行けるメンタリティーあったら、非正規で足元見られていつもギリギリの生活とかしてないと思うのね。

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