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「佐野乾山」とは何?


佐野乾山(佐野窯)

佐野乾山とは、陶工の尾形乾山が江戸時代の元文ニ年(1737年)、下野国(栃木県)佐野を訪れ、その時に現地で焼いた乾山作品の事です。佐野には1年数か月滞在し(滞在期間には諸説あり)、元文三年三月には江戸に帰っています。

乾山は、京都で裕福な呉服商雁金屋の三男として生まれましたが、25歳の時に父宗謙が亡くなりました。その時にかなりの遺産を相続したようで、27歳の時に仁和寺の門前、双ヶ岡の麓に習静堂を建てて隠居します。
その後の乾山の陶工人生は、以下のように分類できます。
鳴滝時代:37歳の時に鳴滝窯で焼物商売を始める。
二条丁子屋時代:50歳の時、鳴滝窯を廃窯し、山屋敷を売却して二条通りの丁子屋に移転。
江戸入谷時代:69歳の時、輪王寺宮公寛法親王が京都から江戸に下るのに合わせて江戸に移る。江戸入谷で作陶を行い81歳で死去。

上記、③の江戸入谷時代の乾山75歳~76歳の時に佐野乾山を作陶したと考えられています。

しかし昭和の初期まで、乾山が佐野に来たことはほとんど知られていませんでした。その乾山の来佐を発見したのは、郷土史家の丸山瓦全氏です。

かつて尾形乾山が下野佐野に来て作陶したことを、最初に発見し発表したのは、一般には篠崎源三氏であったかのようにいわれているが、それは誤りで、氏は発表者ではあったが、発見者ではなかった。では乾山の佐野での作陶を、まず最初に発見したのは誰であったのであろう。(中略)我が郷土の先覚であり、我々のもっとも尊敬してやまない郷土史家の丸山瓦全先生であった。郷土研究の副産物として乾山の来佐をさぐりあてた丸山先生は、友人の香取秀真氏のすすめで、ある少誌に発表されている。筆者もそれを裏付ける事実として、昭和十四年頃恩師の田沢金吾先生と共に、一日丸山先生の案内で氏家町の滝沢家をたずね、佐野乾山と言われている一連の作品と、乾山筆といわれている伝書二冊を拝見したことがある。(中略)
その後丸山先生のすすめにより、篠崎氏がこの研究をゆずり受け、発表したのが昭和十七年の四月であった。中央の学会でも賛成、反対の論はあったが、ほぼ来佐はみとめられ、篠崎氏の研究は事実より高く評価されて今日に至ったもので、その内容は故飯塚伊兵衛氏の研究にもとづくものが多く、その後研究は足ぶみのままであった。(後略)

石塚青我氏 「佐野乾山と手控帖について」宇都宮市「佐野乾山名品展」図録 1962年

乾山の来佐と佐野で書かれた伝書は、学会でもほぼ認められていると思いますが、その時に発見された「佐野乾山」については微妙な状況です。一応、乾山の本には何点か写真は載っていますが、あまり研究はされていないようです。よく開催される琳派や乾山の展覧会にはまず展示されることはありません。
その理由は、これまで書いてきた「佐野乾山真贋論争」が原因です。これ以降、乾山研究は京都時代でフリーズしてしまったかのような状況です。

「佐野乾山真贋論争」の詳細については、佐野乾山真贋論争の経緯を見て下さい。簡単にまとめると、篠崎氏が発見した数点の佐野乾山とは別に、1962年にバーナード・リーチ氏が蒐集家である森川勇氏所有の佐野乾山約60点を見て驚嘆し、「すべて本物!」と評価した事を新聞が報じた事に始まります。当時、本物の乾山作品は300点あまりと言われていましたが、森川氏の集めた佐野乾山は200点以上もの数だったので業界に衝撃が走りました。東京国立博物館、京都国立博物館などの技官はほぼ真作派、日本陶磁協会(陶芸家、古美術商)など民間の研究家は贋作派として新聞、雑誌を通して自分たちの考えを主張しました。しかし、その論争も結局結論が出ず、「限りなく黒に近いグレー」というあいまいな状況のまま60年以上経ってしまい、美術界では佐野乾山はタブー扱いでまともな研究は行われていない状況です。

乾山作品はもともと贋作が多いことで有名ですが、佐野乾山も同じです。
乾山は佐野で3か所の窯で多数の作品を作りました。そして、乾山が佐野を去る時に作陶を行っていた窯、陶工、土、絵具など全部残していったのですから、同じような作品を作ることができる状況でした。そして当然かなりの数を作ったと思います。さらに、まったくの贋作もそれに加わっていますので、それらの選別が必要な状況です。

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