見出し画像

「乾山」は工房作品なのか?

以前書いた『「乾山 見参! 着想のマエストロ」 を読む』で乾山研究の第一人者である竹内順一氏の、「乾山自身が「作陶」に直接関与し、製作過程に乾山の「手の痕跡」のようなものがある作品はない。」というコメントを紹介しました。
しかし、この説は意外と知られていないようです。先日、某SNSで乾山を含めた骨董にかなり詳しいと思われる人とやりとりしていた時に、乾山の絵付けのある作品は確定されていないんですよね?と書いた所、「そんなガセネタどこから仕入れたのか?」との反応返って来て驚きました。私は、「そんな意見があるのは知っているけれど、私は〇〇だから違うと思う」という類の意見が聞けると思っていたのですが、展覧会の図録って皆さん読まないのかな?と不思議に思った次第です。

これは非常に重要な問題で、これがある意味「佐野乾山真贋論争」の原因となったと言えます。その辺りの詳細は別途まとめようと思いますが、まずは竹内先生以外の研究者はどう考えているか、以下年代順にコメントを紹介したいと思います。

まずは、佐野乾山真贋論争が盛り上がった1962年以前の本からです。満岡 忠成氏は茶陶の大家と言われていたようです。

乾山はもっぱら器形や図案、絵付けの意匠方面を、最初のうちは光琳とも相談し、手伝ってもらって、領分としていたが、これは彼の作陶を通じてみられる特色でもあって、彼が直接手を下して成形したものといってはすこぶるまれで、釉法の研究は別として、彼の面目は、いわばデザイナーとしての面や、絵付けの方面にあったといってよい。

満岡忠成氏:1958年 陶器全集7 「乾山」 平凡社

次は、佐野乾山真贋論争以降の本から。佐藤雅彦氏は私としては「中国陶磁史」が印象に残っていますが、乾山を含めて茶陶に関してもかなり本を書かれています。ただし、佐野乾山に関しては贋作派で否定的なコメントを出していました。

乾山の作品といっても、その工程の半分ほどは彼に手になったものではない。(中略)
だから乾山陶をみる時、茶碗の水挽き技術が職人的で平凡だということで、作品そのものを低くみてはならない。おかしな話だが、そういう下地的な面は、乾山陶とは無関係なのである。

佐藤雅彦氏: 1970年 東洋美術選書 「乾山」 三彩社

次は真打登場です。(笑) 林屋晴三氏は、1960年に森川勇氏に佐野乾山を紹介した、いわば佐野乾山真贋論争の原因を作った方です。晩年まで茶陶の本で森川家所蔵だった光悦茶碗を愛でていましたので、亡くなる前に佐野乾山事件のけじめを付けて欲しいと願っておりましたが、特に何もコメントせずに2017年4月にお亡くなりになりました。

陶窯というものは、現今でこそ作陶に当たった作家が一人ですべてまかなうこともあるが、本来そした個人的作業のなかで製作される性質のものではなく、大・小の規模はあろうが窯主のほか複数の工人によって製作されなければ、本来生業のたたないものなのである。したがって、若き日の尾形深省が私淑して陶法を学んだ野々村仁清にしても、御室焼きの窯主として仁清印を仁和寺から授領したので仁清と称し、その陶窯で生産された(御室焼きの仁清の工房がどのような組織で経営されていたか判然としない)作品に「仁清」の印を捺したのである。

確かに乾山陶の焼造は、元禄十二年(1699)の開窯以来、乾山が江戸で歿するまでに、鳴滝時代・二条丁子屋時代・江戸入谷時代の三期に分けられるようであるが、しかしそれぞれが如何なる組織、どのような状況下で生産されたか判然としない。もちろん個人的な制作品もあったであろうが、基本的には工房生産という態勢によって経営されていたであろうという認識をもたなければ、その作品を理解することはできないからである。さらに推測を深めれば、乾山工房にあって、作品に付けられた「乾山」の銘を、すべて乾山が自署したか否か疑問であり絵付けについても絵画の研究家によって早くから指摘されているように、光琳との合作以外にも複数の画家の参画、さらに工房陶画工の絵付した数物も生産されていたに違いないのである。それにもかかわらず、過去の乾山焼に対する私たちの態度はいつも乾山自身の作品(工房生産品ということではなく)としてとらえようとしてきたため、どこかあいまいさの残る作品論を展開せざるを得なかったといえる。
したがってまず、工房生産であるという認識をもって作品を捉え、その上で個々の作品の作行きを観察するという研究を行われねばならなかったのであるが、残念ながら世上の声価が作用して、そうした研究姿勢をとることができなかったことに、いまさらながら忸怩たる思いをいだくのである。

林屋晴三氏:『乾山焼について』「乾山の陶芸」展図録 1987年10月

最後にリチャード・L.ウィルソン氏です。氏は、「尾形乾山:全作品とその系譜」という定価12万円、全四巻の大著を書かれた方です。氏は京都市芸術大学学長であった佐藤雅彦氏の指導を受け、本格的に乾山研究に入ったようです。上記本の巻頭にある、佐野乾山の真作派だった山根有三氏の一文が興味深いです。

私はまだ「目次」を拝見しただけだが、それによってもウィルソン氏夫妻が、四十年前の小林市太郎著『乾山京都篇』(現在までの最も本格的な乾山研究書)を超剋するという意欲で、この大著を執筆したことが分かる(中略)
また、「新佐野乾山事件とその後」では、彼らが第三者として、いかなる意見をもつのか興味深い。

ところが、この本では佐野乾山はまったくの贋作扱いです。(笑)
山根有三氏は、事件当時のバーナード・リーチ氏のように日本の陶磁業界に忖度しない研究を期待したのだと思いますが、真逆の結果となっています。
まあ、贋作派の佐藤氏の指導があったのでしょうからしょうがないのかも知れませんが…。
閑話休題、ウィルソン氏の乾山焼に関するコメントです。氏も工房ありきの考えのようです。

一般に、工房は、資本や労働力、生産状態や利潤のほかに、商品管理や流通などの関係によってその体制も整えられる。開窯には、目算してもかなりの費用が入用だが、乾山の鳴滝工房は、文献や作品の傾向を照合しても個人の資本がもといであった。内窯・登り窯・作業場を整えて、分業にもせよ複合形式であった工房では、土拵え・素地造り・装飾から焼成までも、他窯に頼ることなく一括して処理をする。絵師をおき、専門陶工と下働き、窯焚きにはその都度手伝いを頼んだものと推定する。 もとより、乾山にとっては生きるための生業である。経営者であり、製作者でもあったその手腕と才覚にすべてがかかる。

リチャード・ウィルソン氏:「乾山焼入門」1995年5月


以上のように、乾山焼の工房説は、乾山研究でも主流の考えだと思われます。
佐野で製作した佐野乾山は弟子が成型して乾山が絵付けしたと考えられます。一方、当時乾山自筆の絵の作品は知られていなかったわけですから、佐野乾山真贋論争時に贋作派の主張であった、
「絵が違う」、「乾山の成型とは違う」
というコメントは、そりゃそうでしょ!という話でしかありません。
これらの詳細に関しても追々書いて行こうと思います。


いいなと思ったら応援しよう!