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バーナード・リーチが見た佐野乾山 その2
森川氏と佐野乾山との出会い の続き
森川氏の佐野乾山に魅了されたリーチ氏の話の続きです。本件に関しては私の意見を述べるよりは、情報としてリーチ氏の書かれた内容を紹介したいと思います。
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大きな部屋の、私たち七人の間の床一杯に、約70点の陶器が並べられていて、少なくとも五人は、今私たちは、陶芸史上最も偉大な芸術家の1人の、新しく発見された円熟した作品を見ているのだ、という自信を持っていた。
私の師匠の娘さんの奈美さんは疑っていた。意見を言わなかったもう1人は新聞記者であった。しかし彼は、森川氏がいかに美術商たちから扱われいるかについての話を聞き、また、危険にさらされている金額(新発見の乾山作品が真作となることによって生ずる従前真作と称されていた作品の市場価格の変動を意味している)を知ると、同氏に、しばらく国外に行っていたらどうか、と真剣に忠告した。
陶器は、矩形の食器皿、茶碗、花瓶、円い菓子皿などで、すべて、楽焼である。絵は、黒、朱、青、緑、黄、桃色、青みがかった緑で描かれ、江戸伝書、佐野伝書と一致し、六代乾山から私に伝えられた色彩と同じであった。また、六個の陶器には、明るいトマト色の赤の釉が使ってあり、明らかに三度目の火に入れたもの(錦窯による上絵付けの手法による)であった。
この色については、その時はっきりした説明が私にはつきかねた。と言うのは、この時代にはこのような色彩は極東では知られておらず、西洋のものだったからである。
私たちは長時間話合った。多くの問題が出てきた。何故にこれらの品々が前に発見されていなかったのか。いかにしてそれらは、また誰によって見出されたのか。どうして業者はこれを否認したのか。陶器と手控帖の字は同じ手になるものか。もし私たちの判断が間違っているとしたら、いったい誰が、これらを作り得たのであろうか。等々。私は、そういう問題や他の問題を、ひとつずつ取り扱って行こう。私としては、これらは職人の作ではないと信じられた。職人の仕事は、手法とか、形式とか、模様とかを、共同の伝統のなかで用いるものである。
模作者は、乾山の陶器は何が期待されているかをよく知って作り、書は出来る限り避けるものだ。どちらの場合も、オリジナルな芸術家や工芸家のいっそうの成長と表現をそこに予想するということは出来なかろう。かくして、過去に乾山と同じように偉大な芸術家がいて、絵具も釉薬も手法もそっくり乾山流に作ったか、或いは、信じられないような人物が今日存在しているか、どちらかだということになる。他の説明としては、ただひとつ、私たちの美的判断が間違ったということしかないわけだ。
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その後の佐野乾山
その後、森川父子と林屋氏の三人は、しらみつぶしに、佐野地方を探索する計画を立て、現在までそれを続けている。(中略)
東京に着いて、まず私が一番聞きたかったのは、私のいなかったこの二年間にどんなことが起きたかであった。水尾君の話では、十二個の陶器と六冊の日記が発見されて、計十五冊になり、乾山が佐野で送ったという期間のほとんどが充たされることになったと言う。私の東京滞在中に、もう一冊日記が見出された。乾山が佐野地方から帰江することを記しているこの最後の手控は、他のものと異なって、最近の発見ではない。それは法政大学の岩倉教授の所有で、明治の末の1910年頃、栃木県から移って来た氏の母の実家から彼の手に入ったものである。この手控は、他の手控の保存のよいものと同じく、良好な状況で保存されており、明白に同じ手跡によって書かれ描かれている。然らば、この冊は、これらのどの手控でも、それが最近作られたという可能性を否定するものだ。その上、陶器と手控の字が同じ手であることに疑問はないのだから、書も焼物も、ともに1910年より以前、つまり、問題が始まるよりはるか昔に作られていたということになるのである。これは重要なことだ。何故なら、私たちの反対者の総体的な意見は、最近の偽作だと言っているからである。また、歴史家的な熱心な探偵であるとともに、生来、かなりの芸術家であらねばならなかったろう誰かが、五十年前に佐野あたりでこれらを分散したのではないか、というような意見は滑稽千万で、さらに言えば、ファン・メーヘレンのごとき者がこっそりと、なぞという考も笑止である。
京都の富本憲吉氏は、手控も陶器も、実物を見なかったのである。私は、英国に帰ると直ぐ、陶器の良い写真を数枚送った。因みに、富本氏の歿後、これらは返送されてきたが、意見はついてこなかった。明らかに彼は自信がなかったのである。(七世乾山という)同じ名跡を分かち合いながら、私たち二人が、同じ事柄で相反しなければならなかったのは、まことに残念だ。私たちが数日を一緒に過ごすことが出来たら、年と病気と名声で少し頑固になっていたとしても、私は彼を説得し得ただろうと信じている。
友人の陶芸家浜田庄司氏は、発見品の信憑性について、もっとも強い反対をした。彼は考えるのだ陶器の装飾があまりにも終始一貫巧妙過ぎ、時には虚勢さえ感じられると。またあるものは形が悪いと言う。私も同感である。が、私は次のように思う。乾山も時には友人の強請に屈して、任されれば自分ではそんな風にはしないと思われるような、形や模様を作ったのである。これは、楽の特徴に合わない明の磁器の形をした花瓶に、とくに顕著に認められる。菓子皿の幾枚かの形も良いとは思えない。それらはあまりにも華美だ。そしてまた、それらの絵は、時には、焼物より紙に描いた方がよいと感じられる。たとえば、他の陶工には見られない方法で、陶器の高台にまで彼はいつも模様を描く。鳴滝ではそうではなかった。成功しているときもあるが、そうばかりではない。これは、陶工ではなく、画家の自由の行過ぎである。だがそれは、彼の経歴から十分に予期される事柄であって、模作者から期待されるものでは決してない。
上記、最後のリーチ氏が不思議に思っている「高台にまで模様を描く」件に関しては別途、私の意見を書こうと思います。