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佐野乾山真贋論争の経緯


佐野乾山の真贋論争は「日本最大の真贋事件」とも言われています。しかし、事件から60年以上経過した現在も真贋の判断は「黒に近いグレー」というあいまいな状況で、はっきりとした結論がでていません。その原因などについては今後書いて行こうと思いますが、「佐野乾山」そのものが佐野周辺でも風化してしまっている状況を踏まえ、その論争の経緯を簡単にまとめておきます。

*昭和34年前後?
斎藤素輝
氏が「乾山」銘のある陶器を主として東京の西久保巴町や麻布青山方面の古美術商に売り込みに歩いていた。その中の一つである港区の古美術商米政がそれらの品を「佐野乾山」であると信じて購入した。また、その斎藤氏から、青柳瑞穂氏(詩人、フランス文学者で古美術蒐集家)がその乾山を購入していた。

昭和35年2月
京都から上京した森川勇氏は、 林屋晴三氏(東京国立博物館陶磁室)から、新発見の「佐野乾山」 の話を聞いた。世に、乾山作として通用しているもののうち、万人が真作と認める作例は九牛の一毛に過ぎない、 と言われるほどに贋作に多い乾山であることから、初めて「佐野乾山」の出現を耳にした森川氏も信じなかった。
この情報を持ってきた林屋氏自身、初めて聞いた時は、一笑に付したのだが、現物をみせられて真作と認めざる を得なかったとのこと。森川氏も半信半疑で東京都港区の古美術商米政に行き、実物を見て本物であると確信して父である勘一郎氏(茶人如春庵)と協力して佐野周辺に赴いて直接「佐野乾山」の蒐集を開始した。

昭和35年2月以降
市場に「佐野乾山」が出回り、一部に贋物説が囁かれた。
神戸在住の実業家が収集家の森川勇 氏から700万円で譲り受けた「佐野乾山」の絵皿4枚を芦屋市在住の 乾山研究家である 山田多計治氏に見せたところ、「偽物」と断定され返却する事件が発生。

*昭和37年1月3日
来日中だったイギリスの陶芸家バーナード・リーチは、 藤岡了一(京都国立博物館工芸室長)と共に、京都在住の収集家森川勇氏を訪問。 彼の収集した「佐野乾山」を詳細に鑑賞して感嘆した。

これは、素晴らしい! とても現代人にこれだけのものを作ることはできない。わたしはいま、ロンドンで日本が誇る作陶家:ケンザンの図録を編集中だが、この「佐野乾山」を見て、断乎、図録を改めなければならないだろう。ニセモノ説があると聞いて驚いている。滞日予定をのばして乾山研究がしたくなった。

バーナード・リーチ

乾山を見直した。いままでの乾山研究を再考する必要がある。

藤岡了一

*昭和37年1月19日
上記事実に関連して、朝日新聞朝刊の「青鉛筆」に次の一文が掲載。

来日中の英国陶芸会の巨匠バーナード・リーチ氏が、このほど京都のある美術収集家所蔵の“尾形乾山作” 楽焼70点ほどを見せてもらってすっかり感心「全部ホン物」と折り紙をつけた。乾山といえば江戸三大陶工の一人。昔から模造品が多いため真偽の鑑定がむずかしく、ホン物は絵皿一枚が百万円を下らないという珍品。専門家のなかには「ホン物が大量にどっと出てくるのはおかしい。事実とすれば奇跡」と首をかしげる向きも多い。

昭和37年1月28日付け毎日新聞(中部版)
「名陶”佐野乾山”にニセ論議 最近大量に出廻る 第二の永仁のツボ?」

森川氏の持っている乾山はニセモノだ。ホンモノでとおすと数億円にもなる。早く真偽を正すべきだ。

山田多計治

斎藤素輝という人が34年頃に佐野乾山を持って来た。これは大発見でこの人から作品を買いつづけ、森川氏ともう一人の同業者にゆずった。佐野で発見された(乾山の)覚え書きは、裏づけになった。ニセモノなどとはいいがかりだ。

米田政勝氏 : 古美術店米政主人

森川氏の持ってこられた乾山の覚え書はホンモノだ。しかし、やきものが良いか悪いかは別の問題だ。

山根有三 氏: 東大助教授(乾山・光琳の研究者)

昭和35年2月、東京の古美術商米政で乾山が栃木県佐野市で焼いたという、いままでまったく知られていない作品を見せてくれた。みごとな出来ばえにほれ込み、つぎからつぎへと買った。米田氏の話で、この乾山は、斎藤素輝氏が同店へ持ちこんだものであることが分かった。そのうちに乾山が佐野市で書き残した制作メモともいうべき「覚え書き」も2冊出てきた。その「覚え書」と作品の書体や絵はまったく同じだった。さらに米田氏に案内してもらって佐野市に出かけ、そこの旧家太田清兵衛宅をたずね、2点買った。それ以後は米田氏を通じないで、私自身で佐野市の旧家を訪れて買い集めた。
勘一郎(76)(元文部省文化財保護委員、古陶鑑定家)も、これを見て驚いていた。乾山の「覚え書」も作品の裏付けをしており、自信を深めた。
「覚え書」は、東京大学文学部助教授山根有三氏にみてもらい、「乾山のものにちがいない」といわれた。乾山は元文2年(1737年)75歳の時佐野市に来て、1年3ヶ月ここにいた。世間では突然、大量に発見されたためにニセモノという人もあるようだが、それは私が譲り受けた佐野の旧家の名前を道義上、公表できなかったためだ。近く先方に了解してもらって、名前をはっきり出来ると思う。作品は売らなければ困るものでもないから長く家におきたい。ニセモノと宣言している人と徹底的に論争したい。

森川勇

昭和37年2月9日付け読売新聞
「陶工”尾形乾山”の作品二百数十点でる 栃木で発見 鑑定をいそぐ」

元禄時代の陶工尾形乾山の作品と見られる色絵付けの茶碗・皿・鉢など二百数十点が見つかり、作品の素晴らしさ量の大きさからいって、「美術界における戦後最大の発見」と話題をよんでいる。より慎重を期すため近く位相差顕微鏡・X線蛍光分析などの科学調査によって時代測定が行われるが、その結果を待って、関係者の間で図録が作成され、世に紹介される。またイギリスの陶芸家バーナード・リーチ氏もこの新発見の陶器を発表する手はずなので、世界的な反響を呼びそうだ。

・出所は佐野市内の須藤杜川その他の旧家から出た事が明らかになった。
・京都国立博物館工芸室長藤岡了一氏を初め同室の技官全員が佐野乾山と断定した。
・東京国立博物館の林屋晴三技官、「乾山研究家で作家」の青柳瑞穂氏、東大美術史の教授米沢嘉圃氏が陶器を真作とした。
・東大美術史の山根有三氏は覚え書すなわち「手控帖」六種七点中一点を除き、乾山の新筆に相違なく「奇跡的大発見である」と言っている。
・京都工芸指導所の吉竹英二郎氏は、佐野乾山は750度位で一カマに八寸皿五、六枚が三十分ほどで焼けるから、二百数十点という数字は「おかしくない」と裏付けた。

*昭和37年2月13、14日付け東京新聞

「新発見された佐野乾山、真作と認めざるを得ない理由」
芸術的にも資料的にも証明されているこの「名陶佐野乾山」をいっそう深く認識されることをのぞむ。

林屋晴三

昭和37年2月13日付け毎日新聞(中部版)
「大発見かニセモノか 買い入れ先いわぬ 焦点の人斉藤・森川氏」

・民間の研究家の桂又三郎氏 「ぜったいホンモノだ」
・佐野の旧家で佐野乾山を発見したはずの斎藤素輝氏が佐野市内で佐野乾山をつぎつぎに売り歩いている。
・陶芸家荒川豊蔵氏、日本陶磁協会理事小森松庵氏 「従来の真乾山とはまったくちがうものである」
奥田直栄(根津美術館)、田中作太郎(東京博物館)、松下隆章氏(文化財保護委工芸課長) 「どちらともいえない」

*昭和37年2月14日
衆議院の文教委員会で代議士の高津正道氏が文化財保護委員事務局長の清水康平氏に質問

高津:新発見の佐野乾山に対する贋作説が民間人によって唱えられている一方、真作説には、文部省に属する技官・学者が多い。もし真作説が誤っていた場合にどういう責任をとるのか。
清水:あくまでも、公的な立場ではなく、美術の一研究者としての発言と考えているが、こうした発言はくれぐれも慎重であるべきだと博物館長に伝えてある。
高津:世界に誇り得る乾山の作品とされている二百数十点の真偽が長期にわたって決定できないでいることは、わが国の古陶器鑑定力の未熟を示す国際的不名誉である。政府は然るべき処置を講じてはどうか。
清水:民間人所有の文化財の真贋判定を国が行うのは適当とは思えない。実物を一般に公開して、広く研究・批判にゆだねる方がいいと思う。

昭和37年2月 
芸術新潮」3月号に「新発見の佐野乾山」の特集を組む。

おびただしい乾山の群集をみて、ありていに言えば、わたしは目をみはらずにはいられなかった。同時に呆然とせずにはいられなかった。同時に、感動せずにはいられなかった。疑念はどうしてもわいて来なかった。

青柳瑞穂

ニセモノには、ニセモノの臭いがするものだが、これらにはそんな臭いは感じられない。魅力のある皿だ。

小林秀雄

ぼくは陶器の専門ではないので鑑定などということはできないけれど、紅梅の鉢とケシの花の鉢は乾山の著名、裏面の文字の書体から推して乾山の自書と思いますね。

山根有三

*昭和37年3月8日付け読売新聞
「佐野乾山の出所 発見の三氏が公表 土地の旧家から集める」

要旨は佐野乾山の出所発見の経路が当事者によって明らかにされないため、ニセモノ説が出ていたが、発見者の森川・斎藤・米田の三氏によってその全容が明らかにされた、森川氏らは近く位相差顕微鏡などの科学調査をおこなうことにしており、「佐野乾山問題は大詰に近づいたようだ」

*昭和37年4月12日毎日新聞
「手控えにニセモノ説 書体内容に数々の疑惑」
手控はいわば制作メモで、山根有三林屋晴三氏らが真作説をとり、これが佐野乾山の真作説の有力根拠となっていた。これを日本陶磁協会の梅沢彦太郎理事長初め幹部や、山田多計治氏・松島明倫氏らによって偽作であるとの結論が出され、機関紙「陶説」に掲載された

1.当時はむろん陰暦だが、至るところに太陽暦が出てくる。たとえば「元文初夏六月」などという語があるが、「初夏」とは旧暦では四月のことである。
2.乾山は俳句を作らなかった筈なのに、しきりに拙劣な俳句が出てくる。「不出来と 思えど皿を なでにけり」
「つゆのみの こおる寒さの あだなさけ」というのがある。
3.大和文華館所蔵の乾山の江戸伝書その他と比べ手控には風格がなく、つづり方も間違っている。
4.随所に新仮名遣いが見られる。

昭和37年4月13,14日毎日新聞
「佐野乾山手控えの疑問」

1.手控のあちこちに虫食いの穴らしいものが、その中に穴をよけて字をかいたものがある。穴が後であけられたことを思わせる。
2.「もろもろの諸行云々」という文句があるが、この筆者は「諸行」の意味を何と解していたのだろう?
3.「年の瀬の岸のさかえにあけそめてみそかの月のさえにけるかも」という和歌が記されているが、明治以前の陰暦では「みそかの月」はありえない。「女郎のまことと玉子の四角あれば晦日に月が出る」という古い謡さえある。

昭和37年4月15日
日本テレビは大宅壮一の司会で公開討論を実施。
森川勇氏と吉竹英二郎氏(元国立陶磁試験所加工課長)、梅沢彦太郎氏(陶磁協会理事長)、小森松菴氏で討論を行ったが、 議論がかみ合わなかった。

双方は一時間の放送時間だけではおさまらず別室で三時間にわたり議論したが結論はでなかったものの、陶磁協会側はこれまでの主張をかなり弱め「協会は佐野乾山の本体・本質について正しい判定をした」と態度を変化して、注目された。

昭和37年4月16日付読売新聞

「勝負は五分五分」の見出しで、
ニセモノ説は、
①”新発見”の佐野乾山はみな絵が平板である
②書体がまったくちがう
③手控帖に現代仮名遣いが度々出て来る。除夜の鐘の句が三度出て来るが、「除夜の鐘」という語は幕末ごろから文献に出て来るが乾山存命中には用いられていない、等で、
これに対し森川氏は、
現代仮名遣いは芭蕉にもずいぶん使われているし、書体もそのときどきの気分で出来不出来があっても一貫した乾山のものだ、といった反論があって結局テレビ討論は時間切れに終わった。

昭和37年4月17日付サンケイ新聞

昭和37年4月末
芸術新潮」五月号で「乾山真贋説の終幕」を特集。「ニセモノ説に答える」と題した森川氏の一文を掲載。

作陶に関する疑問
①乾山は佐野では「入谷の黒土」で素焼きしたものを船で運ばせて絵付けし、焼いたと思われるのに、新発見乾山は入谷の黒土でも関東のローム質の土でもない。
②真正乾山は裸焼きであるが、新乾山はサヤに入れて焼いている。
③佐野で短期間に数百点焼くのは難しい。
④新乾山の扇面皿のアヤメの青色は明治以後の酸化コバルトの発色である。

森川氏の反論
①「入谷の黒土」というものは実は存在せず、京都方面の白土を入谷窯で素焼きしたものを乾山が入手したのであろう。
②乾山はすべて内窯で焼いている、サヤに入れた場合にかならず残る「目」がないことで証明できる。
③内窯で一回に八寸皿が五枚でき、一日に五回~八回は容易である。

手控に関する疑問
⑤仮名遣いや文法上の誤りがひどい。「ゐ」を用いるべきところが「い」に、「は」を「わ」と書いている個処がある。乾山の真筆と声価の定まっているものによれば、乾山が正確な文法に従っていたことを示している。
⑥乾山が俳句を作ったという資料は従来まったくなかったのに、新佐野乾山では俳句めいたものが出ているが季のメチャクチャな駄句が多い。「香りより色と姿や梅の花」「不出来とは思えど皿をなでにけり」などというのが、それである。豊かな教養人であった乾山が、もし俳句を仮に作ったとしても、こういう低級な発想のものはあるはずがない。

森川氏の反論
乾山在世中には、正確な文法や仮名遣いはまだなかった。また「季語」のない俳句は、芭蕉の作品にさえもないわけではない。「不出来とは」の一句も、乾山が佐野へ来て初めて地元の俳人たちに手ほどきをうけて俳句を作りはじめたことを思えば、むしろ素朴な実感があふれているというべきである。

作風に関する疑問
⑦新佐野乾山の絵の筆致は、従来の真乾山と比べていちじるしく異なっているが、その図柄は真乾山からまねてとっているものが多い。万が一新乾山が真物であるとしたら、(これまでの)真乾山は贋物でなければならぬ。
⑧乾山が京都在住中の作品にのみ入れていた「洛中」の銘が新佐野乾山の中にある。もちろん「洛中」とは、もともと京都のことである。

森川氏の反論
真乾山として通ってきたものの中に「価値のないものが混じっている」ので、それとちがいすぎるといわれても当惑する。乾山には京都時代の自画自賛作品の現存するものは少く、江戸下向以後のものは多い。新佐野乾山の書が京都時代と比して違いすぎるというのは偏見であり、老境と共に書風が変化して行くのは当然である。画風も、江戸時代の確かな真作、たとえば「花籠の図」や「八つ橋に杜若」(いずれも重文)などとつぶさに比較検討すれば、新乾山が真作であることがわかるはずである。
乾山が京都を離れて江戸へ下った時には失意が深く、佐野滞在中もしきりに京都を恋い慕っていたから、「洛中の夏天下に魁」と新乾山の「八つ橋杜若」に賛をしたのは当然である。失意と望郷の乾山が温かく土地の風流人須藤杜川らに迎えられて生まれたのが、佐野乾山の開花の時期だった。

特集(2)「佐野乾山を”黒”にする謀略」
佐野乾山の「”黒”のムードの演出者たち」は、口火を切った山田多計治氏や地元研究者の篠崎源三郎氏の他、日本陶磁協会がその主動力であって、その全国的な組織を通じて、佐野乾山は黒だという結論が先に作り上げられている、という。

<永仁の壺>事件のとき、世間は騒いだけれど、その解決はなんにもしてやしない。結局小山富士夫君だけが、責任をとったようなとらないような奇妙な形で文化財委から退いただけで他の連中は蛙の面にしょうべんという顔をしている。(中略)小山氏がやめた専門審議委員の補充に、陶磁協会理事長の梅沢彦太郎氏を選んでいる。これでいいんですかと僕は言いたいな。なんの、かんのといっているけれど、文化財委、陶磁協会、そして全国の道具屋さんはグルになっているんですよ。その組織の力で、ニセモノだ、ニセモノだと騒がれては、たまったものじゃない。これはもう”暴力”ですよ。

これは陶磁協会の機関誌(「陶説」)ですよ。この雑誌の口絵にのせている乾山は、いわば協会ご推薦の乾山だ。ところが、どうです。その八割はニセモノばかりだ。(陶説1954年5月号<乾山特集号>)協会の理事諸君で、いい乾山を持っている人があるなら、見せて欲しい。いや協会につながる業者のところでも、まず乾山銘のあるものの九割はニセモノと断言していい。僕は彼らに乾山を論ずる資格なしと決めつけたい。

秦秀雄氏 「芸術新潮」五月号

*昭和37年6月13日毎日新聞
「"佐野乾山"に新たな資料"古くから私の家に"」
NTV討論で森川氏が「出所を公開する」との約束に基づく高津正道氏(衆議院文教委員)と淡谷悠三氏(衆議院文化財小委員)の両代議士が6月12日、個人の立場で行った現地調査の様子を伝えた。

森川氏が直接購入したもとの所有者
・栃木県佐野市 須藤清市氏(元小学校校長)
・黒羽町    鈴木源之助(陶器商)
・藤岡町    島村源吉(調理店主)
・小山市    脇坂景秋(質商)  

*昭和37年6月19日~28日
東京の白木屋百貨店で「新発見『佐野乾山』展」が開催され多くの反響をよんだ。

「乾山の佐野時代」
この意味において、このたび新しく発見された「佐野乾山」の一群と十点に及ぶ乾山手控帖は、佐野における乾山晩年の芸域を如実に示して余りあるばかりでなく、乾山の全容を知る上にもきわめて重要な資料とせねばならない。(中略)「佐野乾山」のそうした絵画性を、より美しく微妙に表現するための支えは、彼独特の工夫になる「下絵付の技法」である。(中略)「下絵付けによる色絵陶器」は実は乾山にはじまり、乾山をもって終息するといっても過言ではあるまい。

藤岡了一氏 京都博物館工芸室長・文部技官

「『佐野手控帖』に見る人間・乾山」
これらの覚書群は、これまで明らかでなかった佐野における乾山の行状の核心を、直接に説き明かしてくれるばかりでなく、乾山の人となりやその芸術観、また京都や江戸における製陶の事情まで照らしだしてくれる貴重な資料である。佐野乾山の作品群の発見は、おそらく美術史上空前の出来事であったが、それに伴った覚書群の発見も史上稀な事柄といわねばならない。

水尾比呂志氏 美術史家・武蔵野美大助教授

*昭和37年6月24日付毎日新聞夕刊
「見ぬもの清し 佐野乾山展」

(前略)佐野乾山展を見た。色が多くてソウゾウしいのに驚き、かつ薄汚いのにも驚いた。この夜、菅原通済さんにあった。「白木屋へ行かれましたか」と聞いたら「あわれだから行かないよ。君はあのうちどれがほしいか」と逆にたずねられた。どれもほしくないと答えた。(中略)文教委員高津さん、佐野乾山などで佐野くんだりまで出かけない方がよい。その道の専門家にまかせておけばよい。万一、被害があれば警視庁が扱えばよい。(下略)

岩田藤七郎氏 芸術院会員・ガラス工芸

*昭和37年7月8日付毎日新聞
「佐野乾山ニセモノと断言 かな文字研究の加瀬氏 書体がちがう”手控”紙も画箋紙でごまかす」

加瀬藤圃氏は三十年前から乾山の書について研究し、佐野乾山事件がさわがしくなったことしの初めから手控や陶器の写真を入手、仮名字母表をつくって、これと、いままで学会・専門家に、間違いなく乾山の真筆といわれた文書・陶器から選び出したもので一覧表を作って比較し、以下の結論を得た。
・筆法がちがう
・書法も単独体と連綿体のちがいがある
・字母と書体に共通性はない
・はっきりニセモノとみとめてさしつかえない
その後、加瀬氏は昭和37年7月号~9月号(112~114号)に佐野乾山についての字母の研究を発表している。

この手控までこしらえて東西の大デパートに堂々と陳列させた贋物業者の宣伝振りは、今までにない強引ぶりであった。この大量製産の偽物も、はじめから模造としてなら許せるが、真物の緒方乾山作として三点を数百万で得るといった悪辣な商売をしたから問題になったと思う。猶問題になっても真物とみせようとした、森川氏は、まず第一の明き盲で、これを絶賛してやまなかった美術史家数氏は、猶一段の半鍳半食(はんかんはんしょく)の徒である。その愚劣低見論ずるに足らむヘボ学者である。二世紀以前の作品と今窯からでたばかりの低劣醜陋なるものと弁別できぬとあっては、今までなにを勉強されたかといいたい。(表現、使用漢字はそのまま記載)

加瀬藤圃氏 陶説114号

*昭和37年7月14日付毎日新聞大阪版夕刊
「佐野乾山はニセモノだ」

①展覧会図録の表紙の「紅梅絵四方花入」の裏銘は「大日本国 雍州 陶工 陶隠 京兆 紫翠 乾山 深省 七十六歳 花押」となっており、雍州は京都のことで「陶隠」も陶工の意であるから、同義語が二回ずつ重ねてあるということになる。
②「寂滅浄心」と賛の書かれた「紅白蓮八寸皿」の裏には「禅門末弟 陶工 陶隠 霊梅自号 深省 乾山 謹而造之」と記してある。禅を学んだことは事実でも禅僧になったこともない乾山が禅僧末弟などと称する筈もなく、また乾山の自署や印には「直指座下霊海深省」というのはあるが、この銘のように「霊梅」などというものはない。これは印が隷書なので「海」の”サンズイ”を”木ヘン”とよみ誤ってそのまま偽造したものである。
③展覧会図録にも所収の「水仙絵八寸皿」は、水仙の花が元来六弁であるのに五弁に描かれている。この絵は小林市太郎著の「乾山」に写真のある「水仙皿」とまったく同じでこれをまねたことが明らかであるが、水仙皿は京都の乾山堂という道具屋が明治末から大正にかけて作った偽物であり、佐野乾山の作者はこれを写してさらに偽作を作ったわけである。

保田憲司氏 大阪陶芸文化研究所長

*昭和37年「陶説」9月号
「陶芸実技家の見た佐野乾山」というアンケートを実施。
十人中二人が意見なしで後はすべて贋作説であった。

(前略)轆轤・型共に職人が機械的に無感覚に造ったもので、乾山の成型とは較ぶ可くもありません。粘土は佐野地方の産出ではなく、その色調・貫入等から見て、瀬戸・信楽の土と思われます。釉薬は含鉛低下度釉にて絵具は低下度釉として明治以後に造られ、現在楽焼用として市販のものに類似します。特に紅梅絵に使った紅は佐野乾山時代には発見されて居らぬものです。

京都 福田力三郎氏(新匠会)

(前略)あの描き方のシャゴシャゴした点、釉薬の薄っぺらな点、或いは梅に使用のエンジ色、或はエナメルの様な朱色等、明治以後の科学染料のように思われます。(下略)

京都 清水六兵衛氏(日展)

*昭和37年8月2日から10回にわたって毎日新聞に作家の川端康成氏のエッセイを連載。

(前略)いわゆる「新発見の佐野乾山」を、ニセモノと見る私の印象は、きわめて簡単明白である。
・絵が悪い
・書が悪い
・騒々しい
・品格が卑しい
・器の形が悪い
ここで悪いというのは、乾山のものとはちがう、乾山のニセモノであるという意味よりも強い。乾山であるかないかより、それ以前の否定である。つまり、だれの作であろうと芸術品として「悪い」のである。(下略)

川端康成氏(作家)

*昭和37年「美術手帖」8月号
画家の岡本太郎氏が佐野乾山展を見た感想を書いている。

(前略) 会場に入るなり、意外な思いだった。 二つ三つと見るにつれ--なかなかイイジャナイカ。--色が鮮やかなハーモニーで浮かび上がっている。筆さばきも見事だ。(中略) 気どりやポーズ、とかくやきものに見られる枯れた渋み、いわゆる日本調みたいなものがない。(中略)いきいきした線、タッチ、そのリズムが何となくモダ―ンな感じで、ふとピカソやマチスのデッサンを思いおこさせる奔放な表情があったりする。(中略)さてこの展覧会は、真贋のうるさいセンギに決着をつける為に計画されたのだろうが、そんなことどうだっていい。たとえニセモノだって、これだけ豊かなファンテジーのもり上がりがあれば、本ものより更に本ものだ。

*昭和37年9月 
芸術新潮10月号に作家の松本清張氏が「泥の中の『佐野乾山』」を発表。

①小西家文書の乾山の真蹟がいかにも名手が書いたというようにのびのびとし、漢字はその画間隔が見た目に等分で、たいへん美しい形になっている。手控帖の字は巧いが、こういう美しさや優雅さがない。メモ帖であるはずなのに書き損じや訂正がまったくないのも「おかしい」。
②手控の紙質が古いことから推して、手控はあるいは乾山の弟子が書いたのではなかろうか。手控帖の文字と陶器の賛が一致しており、陶器は乾山その人が作ったものではないことになる。つまり「乾山」の優秀な弟子が絵付けをし、賛を書き、「乾山」という落款を書いたのではなかろうか。

松本清張

*昭和37年10月29日
衆議院の文教委員会、文化財保護に関する小委員会
代議士の高津正道氏が文化財保護委員事務局長の清水康平氏に質問

高津氏が、当初白だと主張していた芸術新潮において、松本清張氏が手控も作品も両方とも乾山のものではないという意見を発表している、「陶説」で一流陶芸家がほとんど新佐野乾山は乾山のものではないと公表しているにもかかわらず、一番権威のある文部技官が太鼓をたたいて博物館を背景にこれは本物だ宣伝しており、実に重大な問題だと指摘。
これに対して清水局長は、「民間の学者、世論も次第に落ち着くべきことろにに落ち着きつつあるのでございます」と述べたが、それに対して浜野清吾委員が、あれだけ積極的に真作説を公表していた藤岡技官がふたたび反論して自分の説が正しいと主張すれば、これは「落ち着く」どころの騒ぎではないと主張した
委員長の中村庸一郎氏は、「両委員のご質問はごもっともであるし、林屋・藤岡両氏の行動はまったく遺憾に考えます」と述べた。

*昭和37年10月12日付英国の有力な日曜紙「オブザーバー」
バーナード・リーチ氏が「乾山と茶人たち」を発表。

乾山のにせもの・ほんものを見分ける確実な方法は筆跡そのものの鑑定である。作品には手控がついており、新発見の作品は楽焼で、彼の初期の作品と同じようにのびのびとしている。私は乾山の全生涯と作品が再評価されると信じている。

*昭和38年1月13~20日で宇都宮市の東武デパートで「佐野乾山名品展」を開催した。(乾山研究会主催)

*昭和38年4月6日付毎日新聞
上記、リーチ氏の発表に関して「国際的になった『佐野乾山』の真偽論争」、「ほんものと確信」の見出しで報道した。

オブザーバーに堂々と書いたのは困ったことだ。日本の陶芸界にとり不幸なできごとだ。(中略)リーチ氏が佐野乾山の実物大の写真を見せた。絵のコンポジションが狂っており、ひと目でダメだといったが、リーチ氏はお前はガンコだからといった。その後、手控の写真を見せてくれる人があったが、これも奈良の大和文華館の乾山の真筆とされる江戸伝書とは似ても似つかぬものだった。乾山研究をすすめるには色絵の研究をしなければならぬが、リーチ氏はその点が甘い。また、日本の美術界の内幕も知らない

富本健吉氏 陶芸家、リーチ氏の50年来の親友

昭和39年9月「芸術新潮」9月号にバーナード・リーチ氏が一文を寄せる。

手控えは読めないが、手控えの文字や絵がやきもののそれらと一致しているから「佐野乾山」は真作だ。

昭和60年に入り住友慎一氏が佐野乾山に関する一連の著書を刊行。
特に、これまで発見された手控に関する著書は非常に重要な資料となっている。

*2003年12月美術誌「Bien Vol.24」にTV番組「なんでも鑑定団」の鑑定師としても有名だった瀬木慎一氏の佐野乾山に関するコメントが掲載された。

(関連部分抜粋:P16)
・・・ では瀬木さんは栃木県の佐野市で大量に発見された尾形乾山の作と言われている作品、いわゆる〈佐野乾山〉についてどう考えていますか?

〈佐野乾山〉と言われるのものはだいたい二百数十点ほどあるでしょうか。これは当時国会でも論議されましたが、その後色々と資料も出てきて疑問も晴れてきたし、今はもう発見当時とは扱いも違うと思います。乾山は佐野に1年3ヶ月いたことが明瞭になっています。いつ行って、いつ帰ってきたかまではっきりしているんです。むしろ本当に分からないのは、佐野に行く前、上野の下谷にいた時代の作品がひとつも残っていないことですね。
(中略)存在は確実ですし、乾山本人が制作したものもそのうち過半だと思います。ただ贋作のようなものや、弟子がつくったものがそのなかに混入している可能性もあります。ですからその選別が問題でしょう。真相の究明は今そこまできていると思います。(中略)あと絵付けの特徴です。これは模倣しようと思ってもできないものです。乾山は京都時代から描いているのを見てわかるように、非常に絵が俳画風の速筆なんです。兄である光琳にもその要素がありますが、この人はもっと古典的にがちっと絵を描いた人ですから、ちょっと画風が違うんです。ですからあの絵付けはまさに乾山です。彼の絵と整合すると思います。


参考文献:
・「真贋」―美と欲望の11章 (1965年) 白崎 秀雄
・芸術新潮  昭和37年5月号、10月号
・Bien Vol.24
・陶説 昭和37年7月号~9月号(112~114号)

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