10月7日
会社で、会議でうまく話せなくて、情けなくて泣いてしまった。でも、みんなもう私がすぐ泣くことを知ってるので、「大丈夫です、これ、無感情泣きです」って言ったら「大丈夫だよ、みんなわかってるから」と返してくれて、ありがたかった。本当は無感情なわけないですけどね。でもそういうことにしといたほうが私もみんなも、説明しやすくて理解しやすくてお互いを嫌いにならずに済んで、いいですよね。
泣いてたら別のチームの先輩たちが次々通りかかって「どちたのー😭」「これ食べる?」「疲れたら無理しないんだよ」「ティッシュあげる」って嵐のように甘やかしてくれてほんまにありがとうございます……と思った。その間、片手でずっとMacBookProを支えていたので、腕がプルプルしていた。
で、まあ部署の人たちとも個別でちょっと話して、落ち着いて、この作業終わったら帰ろうって思って、19時前くらい。トイレ行ってTwitter開いたら「10月7日。きょうはデモに行こう」というツイートがあった。それで、ああデモに行こうと思った。
作業の続きを明日に回して急いで半蔵門線で一本で渋谷。ハチ公前ってどこからがハチ公前なんだっけと、恐る恐る地上に出ると、A8出口左に曲がってすぐのとこに、でっかい黒と白と赤と緑の旗があった。
なんにも持ってきていなかったのでもとから借りる気満々で来たのですが、実際話しかけようとするとためらってしまった。でも、優しげな感じの人が近くにいたので、なんにも持ってきてないんですけど一緒に立ちたいんです。いいですかって訊いたら、受け入れてくれた。反対隣の人が余ってたポスター持たせてくれて、それで、40分くらい立ってた。勇気がなくてあんまり声出せなくて、フリーフリーパレスティナも、小さい声でしか言えなかった。でもどんなふうでも立っていていいのが助かった。
立ってるあいだに思ったのは、目の前を無数に通り過ぎる人たちの、やばい人たち見ちゃったみたいな賢げな視線の逸らし方がまあそうですよねって感じだったんだけど、最初に話しかけた隣の人が、そういう一瞬でもこっち見た人に、明るく手を振っていたんです。で、振られたほうの人たちはちょっと気まずそうな顔して、そのまま歩いていったけど少しまとう空気がやわらいでいた。そうやるんだって思った。私は苦笑いとか、キモみたいな顔とか、茶化す声とか向けられたら怒る。怒るしかないと思ってる。けど怒りながらでもああいうふうに手を振ることで相手を変えることができるんだと、初めて知った。
それからかっこつけた格好して「パレスチナについて知る」のチラシを無視して歩く男、隣でビラ配りしててこっちを邪魔そうに見てたアイドルかバンドかの高校生、私たちの目の前でスタバ飲んでた女の人、の、ダサいことダサいことと思いました。私も数年前とかだったら、こういうデモみたいなの見かけたら、目合わせないように気配消してスルーしてただろうから、偉そうなことは言えないけど、それにしたってダサすぎる。あまりに奇異の目で見られるから、こっちが間違ってるみたいな気持ちに何度もなりかけた。でも、行き方調べることすら面倒なくらい遠くでも、虐殺が起こっていることに異議を唱えないほうが絶対間違ってる。というかいかれてる。これまで人類が必死に愚かさを積み上げてやっと到達した道をすべて壊すようなことをイスラエルはしているのに、それを容認して、そのうえで得られる美しさや楽しさや幸せにはなんの力もない。私は美しさや楽しさや幸せが、暴力や抑圧や絶望に絶対勝ってほしいから許さないんです。別れ際、入れてくれてありがとうございましたって隣の人に言ったら、握手してくれた。握手するの久しぶりで、手がさらさらしてて柔らかくて大きくて、たしかに人間だと思った。
去年の10月、たぶん私はいまと同じように会社で原稿書いて、ダメ出し受けたらそれなりに落ち込んだりして、学校行ってゼミの皆と話して笑って、家族で牡蠣フライ食べに行ってただろう。それから今年の10月まで、いろいろあったけど概ね幸せで、適応障害の初期には動かなくなった感情もいまは元気に動くようになった。毎日おいしいご飯を食べ、面白い本や映画やドラマやアニメや漫画を見て最高って思って、友だちとは定期的に遊んでもらって、会社でがんばったり落ち込んだりたまに報われたりして、帰り道の他人の家のシャンプーの匂いが流れてきて、ラジオ聴きながら犬の散歩して、生きてて良かったって思った。その、同じ365日のあいだ、ガザではただ毎日毎日毎日毎日「お前はいつ死んでもいい、生きていなくていい存在だ」というメッセージが、すべての住人に降り注いでいる。「感情が動くのも全部無駄だ」「誰を大切に思おうと、誰に大切にされようと、全部、完全に、無駄だ」「殺されるためだけにそこにいるんだ」。私はガザの人々が実際はどう感じているのか想像できない。0.1ミリもわかっていないと思う。でも、もし明日のパンを買うために近所のパン屋さんに行って、いつもの公園を通って帰ってきたら自分の家が破壊されていて家族が手足のない死体になっていてその肉を家族皆の大好きな犬が食べていたら、私はそう言われている気がするだろう。「お前の感情が動くのも全部無駄だ」「お前が誰を大切に思おうと、お前が誰に大切にされようと、全部、完全に、無駄だ」「お前は殺されるためだけにそこにいるんだ」。
これから私は寝ます。きょう洗ったばかりのシーツの上で、読みかけの本を枕元に置いて、新しく買ったボディソープの金木犀の香を嗅ぎながら寝るんです。「事実、こうしている間にも戦場では何千人が死んでいる」わかってるわかってる。でもどうしようもできないじゃん。でもそろそろ本気で、自分にはどうしようもできないけどどうにかするんだという気持ちで、その事実を直視し直さなければならない。虐殺を止めずに生きている全ての1秒1秒が私たちの加害だということを。