堕ちきってみたいという願望
堕落の果てまで行ってみたい、という願望はある程度だれしも持つ感情なんじゃないかと思う。
堕ち切って堕ちきって堕ちきった先には何があるのか。
私は心が弱いから、受験とか卒論とか、そういう人生で大事な瞬間には常に、もう世間一般のコースを外れてしまったほうが楽になれるのではないか、という妄想にさいなまれる。
心理学的に言えば、これはまあ、何らかの回避行動に過ぎないのだろうけど、
堕落を極めた人間はロックでかっこいいのではないかな、と思う反面、堕ちきってそれでもなお、様になる人間はセンスとかある種の賢さとか、かっこよさとかそういうのが備わった、「そっち側」の人間だとも感じてしまっている。
所詮、脳死でサラリーマンになることを選び、人生の何もかもが中途半端な私は、生ぬるい世間一般、中央値かそれ以下の安全圏内にしがみつくのが、せいぜいの幸せの限界なのだ、とも、理解している。
苦しみは本当に無限にバリエーションがあるし、世間から外れた人生も無数の行き先がある。でも、能力の一般的な凡人にとって、世間でいう真っ当な道というのは、非常に限定的な選択肢しかないように感じられるし、所詮幸せは凡庸で色あせたつまらない、数パターンしか用意されていないように感じる。
凡人として、自分は限られた幸せか、不幸でも幸せでもない無味乾燥な人生を完走し続ける必要があり、時には逃げてはいけない壁もある。
壁にぶち当たったとき、天才やセンスのある人は、そこから逃げたり脱落したりしても、他の道に活路を見いだせるが、凡人には不可能に思う。
結局、凡人は壁をどうにかこうにか、一般的なやり方で苦しみながら突破し、その先に続く苦しみに満ちた坂道を、また楽観的なバカを演じつつ這って進んでいくしかない。
高校2年生の時に、中学で同じ部活に所属していた同級生が自殺で死んだ。その子はレベルの高い高校に進学した。さぞ勉強に苦しんだんじゃないかと思う(当然、彼女は頭のいい子だったことは確かだ。でも、彼女の学力レベルで進学できる最もいい高校に進学したと、記憶している)。周りの人間と自分との差に劣等感を覚えたのかもしれない。それとも、人生そのものに対し、悲観的に考えるようになったのかもしれない。以上のことはあくまで推測でしかなく、彼女の苦しみは全く知りえないことだが、あの年齢のとき、特に死への渇望というのは強くなるという感覚だけは共有できると思う。
彼女が自殺で亡くなったという知らせを受けたとき、私はうらやましいと思った。いたくなければ、苦しみがなければ、私も自分の存在を無に帰すことを希望していたから、望み通り死ぬことができた彼女はなんて勇気がある人間だと、感心しきりだった。
人生をどうしても悲観的に、苦しみの視点でとらえてしまう人間はやはり一定数存在すると思う。どんな楽しい瞬間にも、少しの不安は残るし、大抵の時間を苦しみや不安の中で生きている、そんな人間は存在すると思う。
生来こういうタイプの人間は、どんなに訓練しても生きることに無条件に肯定的になれることはおそらくないだろうし、どんな形であれ苦しみながら人生を生きることになるのだろう。
高校生のときは、真剣に、思春期の自殺は最高の損切のタイミングだとおもっていたし、今でもこの思いは変わらない。
生まれてこなければ良かった、と感じる。でも、自殺の勇気はないし、そこまでの衝動に至る動機もないので、苦しみを最小限にするために毎日コツコツ苦しんで、どうにか楽に生きれるよう、地べたを這う毎日だ。
どこまでも、堕ちきれたら楽しいのかもしれないが、その先に今よりも大きな苦しみが待っているかもしれないと思うと、やはり今のままで苦しみたいと思う、ださい自分を受け入れて。変な自意識やプライドを捨てて、素直な人間になりたい。こだわりを捨てて、本当の意味で軽薄に生きれるようになれたら、飾らず、ださくてもいいと受け入れられたら、無我無欲の状態になれたら、と思う。
願わくば、なんだかんだで、このまま一生大きな波乱なく壁を乗り越え続け、ださくて面白味のない人生を歩めますように。
こんな文章を書きながら、精神的に弱いことを、哲学的とか感受性とかの言葉で美化してる自分に気付き、そのだささに反吐が出る。
結局自分は何も成し遂げる能力もなく、そのための努力もできないくせに、哲学をファッションみたいにもてあそび、自分の低能さと未熟さと弱さを自己弁護的に美化しているだけだ。