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日食さんのライブに行った話
2024年11月4日 新潟県民会館、2024年11月17日 日立システムズホール仙台。日食なつこさんのライブに行ったのだけど、感情の整理がつかないので整理がてらnoteに残しておく。
どちらのライブも「日食なつこ 15th Aniversary-宇宙遊泳-」のベストアルバムリリースツアー「エリア現在」のライブで、初日と2日目にあたる。今回15周年ということで、日食さんは様々なツアーや企画をしていてHPを見るだけで楽しいので是非見てみてほしい。
15周年、本当におめでとうございます。
ライブのnoteではあるのだが、日食さんの音楽に対する自分の感情があまりにも大きいのでライブ以外のことも書く。
まず、日食さんの音楽を初めて聞いたのは2022年3月10日、日食さんの「水流のロック」を友人に勧められた時だった。最初はあまりハマらなかった。ピアノがメインの音作りで日食さんのような歌い方をされるのを聞いたことがなく、今まで聞いたどの音楽とも似ないし参照も出来ず、自分の中で持て余していた。この時は音楽を聴く習慣がつき始めた頃で、参照できる音楽の数が自分の引き出しにほぼなかったというのもある。
その友人と仲が良かったので、好きなのを理解したいと思ってプレイリストに突っ込んで何回か繰り返して聞いていくうちにある時ふっと、この曲めちゃくちゃ良い! と目が覚めるように気づいたのである。確かバイト先に向かって歩いてる途中だったと思う。そこからは気づけば日食さんの曲を聞きまくり、サブスクの年間で一番聞いたアーティストが2022年からはずっと日食さんである。多分2024もそうなると思う。(もうその友人とは疎遠になってしまったのだけれど、日食さんを教えてくれたことは本当にずっと感謝している。ありがとう。どこか知らぬところでお元気で。)
ある特定の期間にめちゃくちゃ聞いた音楽はその時の感情や思い出も背負ってしまう、というのがあると思うのだが、日食さんの曲がまさにそれで。2022年の夏から秋が自分の中ではここ4,5年で一番苦しい時期だったと今なら言えて。日食さんの曲をその時期に一番聞いていた。だから曲を聞く度にその時のことが過ぎって、苦しいような、でもその状況から今脱していることに安堵するような。でもその時の苦しみから根本的には解決していなくて、ただ問題を引き伸ばしにしてるだけの現状がしんどくて。そういう、息が詰まるような感覚があるのだけれど、逆に曲を聞かなくてもその感情にはなるから、助けを求めるみたいにまた日食さんの曲を聞いて……というのをここ数年繰り返している。でも曲にそういう感情を背負わせるのも嫌で、わざと明るい気持ちの時も聞いて、背負わせすぎないように調整したり。だから最近は前よりも割かしフラットな気持ちで聞けていて。すっかりこの時の苦しみが2022年の時よりも褪せていて忘れていたのだ。
2024年11月4日の新潟のライブ。
行く前は楽しめなかったらどうしよう、雰囲気にのれなかったらどうしよう、こんな好きなのにがっかりしちゃったらどうしよう、とかネガティブなことを考えて会場に行ったのに、いざライブが始まったら2曲目からもう涙が止まらなかった。自分がなんで苦しい時期に日食なつこの曲を一番聞いていたのか、その時期を乗り越えられて、乗り越えられたからライブに参加出来ていて。救われた、なんてそんな重いものを押し付けられないのだけど、あの時期を乗り越えられた頼りの一つは確実に日食なつこだった。このライブからは2週間ぐらいたっているのに、この文を書きながら思い出して泣いてしまうような、冷静に言葉にするのがむずかしい、さまざまな感情が渦巻くように湧き上がる。あの時期の眠れずに朝が来て明るくなった部屋で頭をパンパンにしながら日食なつこの曲を聞いて、どうにか生き延びているような自分が引っ張りだされるような心地だった。日食さんの音楽が気づけば自分の傷にぺったりくっついて癒着して離れない。というか、絆創膏だったのかもしれない。部屋の中で一人で音楽を聴くのが一番だと思っていたけれど、あの時のライブが凄まじすぎて、その限りでもないのだな、と考えを改めた。
日食さんの曲は、人の苦しみや葛藤とか、鬱屈した感情を否定しない。肯定もしないけれど、ただそういうものがあることを認めていて、その上でもがいて生きるというか。やたらと明るくて未来や希望だけを見ているわけじゃなくて、暗い感情をきちんと認めた上で一縷の明るさに向かって駆ける。そんな感覚がある。暗いものを暗いまま終わる、絶望したままの曲もこの世にはあるのだけど、そんなのを聞いてしまうと私は落ち込んでしまって、本当にいよいよ自分の希死念慮に食い潰されそうな感覚になるから。やたらと明るい曲は希死念慮を無視されてるみたいで、もしくはいないものみたいで、それはそれで苦しくて。日食さんの曲を聞くと、希死念慮のことをいてもいいと思えるし(どうしたって消えないから)、でも希死念慮に食い潰されないぞ! と思える。希死念慮と手を繋いでるみたいな。適切な距離を取れる気がするし、多分適切な距離を取れなくなったとき今度こそ自分はだめになるんだな、と薄らと察していて。いつもそこを敏感に感じとっては適切な距離をとるように心がかけているから、日食さんの曲はその適切な距離を測る時に一助になっていて、だから本当に、本当に、救われているんだと思う。…言っちゃった。救われているとか、大きい言葉を使うのって良くないな、と思うんだけど、でもどうしようもなくそうだから。押し付けるとかでもなく、ただ私が救われているという事実があるだけだからなんとか許されないかな。救われたとか苦しみから逃れる頼りにするとかでなく、ただもう単純に音楽的に楽しめたら一番健全だと思うから、希死念慮が小さく小さくなってもう手を繋ぐことも無くなったら、その時はまっさらに曲を聴きたい。祈るみたいにそう思う。
2024年11月17日の仙台のライブ。
新潟のライブがあったから、不安もなくライブ会場に足を運んだ。新潟のライブは食らいすぎてずっと泣いてたけど、さすがに同じツアーの2日目だったから、ほろほろ泣く程度に収められて、音楽をちゃんと集中して聞けて良かった。新潟は“私”と“日食なつこ”しか意識がいかなかったのだけれど、仙台は会場の他の観客の方にも意識を向けられて、声を出してみたり手拍子したり、近くの席の人が泣いてるの気づいたりして。ライブの一体感というのは仙台の方が感じやすかった。会場にいるみんなが日食さんについて知っていて、日食さんが好きで、めちゃくちゃ食らってる人もいるんだろうな、と思ったら堪らない気持ちになる。最後の曲は特にそうで、最後の曲のときに自分はこれからもなんとか生きていけるかも、と漠然とそう思った。うれしかった。
新潟のライブとの違いで言うと、ライブ中に座って聞くタイミングがあるのだけど、その時に仙台は手拍子がほぼ起きず、みんな座って舞台に立つ日食さんの音楽を聴く、という状態になっていて。まるで音楽鑑賞のようで、それもそれで良かった。そもそも日食さんの歌の上手さや歌詞のもつ力の強さ、音の美しさ……様々な点でそういう音楽鑑賞のような姿勢で聞くに耐え得る強度になっていて、すごかった。2日目にしてようやく音楽的な視点で見れたから、2日目はずっとすごい……! と思いながら会場にいた。別に音楽的素養があるわけでもないから、すごい! としか言葉は出てこないのだけど。なんかもう、本当にすごかったからみんな行けばいいのにな、と思いました。私はきっとまた行きます。
個人的な話ばかりでライブの感想がちょっとしかないのだけど、日食さんの音楽が自分の内側に入り込みすぎて、個人的な話しか出来ないから仕方がない。
日食なつこさん、改めて、15周年本当におめでとうございます。日食さんの音楽に出会えたことがここ数年でいちばん良かったことかも、と思うくらいには大切な曲ばかりです。心のうちの、やわらかい部分を外にさらけ出すような冷たさと心細さ。そういうものをたまに感じます。それにどうしようもなく助けられてます。日食さんの研ぎ澄まされた言葉の連なりも、美しい音も、全部が大好きです。言葉にならない感情ばかりが浮かんできて、言葉が追いつかなくて、もどかしくなります。大好きです。本当に、ありがとうございます。
15周年のベストアルバム。
いちばん好きなアルバム。