31 祈り、願い、そして神々の思い
皆さんは日々、祈りを捧げているだろうか。
私は毎朝行っている瞑想の前に祈りを捧げている。
今回はその祈りについて考察してみたい。
<私の祈りの例>
今朝も目覚めることができて感謝します。
全ての人の意識が目覚めますように
生きとし生けるものが幸福でありますように
地球が愛で満たされますように
地球が光に包まれますように
出会う人一人一人に魂、ハート、愛、内なる神を見出せますように
私の思いと行動が神々の御心にかないますように
神の計画がこの世で実現されますように
私たちが神々と共にありますように
白のマスター様、守護天使様、いつも見守っていただきありがとうございます。
その時の気持ち次第で言葉は変わるが、まあこんな感じ。
ウィキペディアで「祈り」の定義をみると、
「世界の安寧や、他者への想いを願い込めること。利他の精神。自分の中の神と繋がること。神などの神格化されたものに対して、何かの実現を願うこと」
とある。
この定義によれば私の祈りははずれてはなさそうだ。
神社にはたくさんの絵馬が掛けられているが、それらを眺めると様々な願いが込められていることがわかる。
◯◯大学に合格しますように
□□さんと結婚できますように
家族が健康でありますように
病気が治りますように
△△の商談が成立しますように
良い子が生まれますように
家族を思う純粋な気持ちで願う人もいれば、状況的に切羽詰まった人もいるだろう。
私といえば、神社に行くのはせいぜい初詣くらいだった。
(そんな不信心なお前が人の願いについてあれこれ言うなってか。ごもっとも)
そんな私も今年の2月から積極的に神社に参拝するようになった。(理由後述)
そのように心を入れ替えた矢先、部屋を整理していたらその初詣(3年前)の破魔矢と絵馬が出てきた。
奉納もお焚き上げもせず部屋に3年間放置という不信心さに我ながら呆れかえるが、それはそれとして当時自分が絵馬の裏に書いた願いを改めて眺めてみた。
他の人の絵馬に比べたら厨二病かって感じで笑えるが、
一人一人が意識を覚醒させて、敵も味方もなくなり世界が一つになってほしい
と思ったのだ。
余談だが、昨年、勤め先の会社で50代の社員に向けてセカンドキャリアプランという研修があり、それを受けた。残りの人生で実現したいこととして多くの人は財産形成、家族との時間などと書いていたが、私は「真理の追求」「世界の平和」と書き周りを唖然とさせてしまった。もうこの歳になると人生の目的など変わるわけがないのだ。
さて話を戻すが、この絵馬を書いた2020年以降、世の中で何が起こったか。
コロナ騒動で多くの人が品不足のマスクを奪い合い、ワクチン接種も早い者勝ちで誰もが回線パンク状態の電話をかけまくった。
みんなで分かち合う、助け合うという気持ちは見られなかった。
そしてロシアがウクライナを侵攻した。
ウクライナ支持のNATO加盟の欧米諸国や日本などの先進国に対し、歴史的にその欧米に虐げられ搾取されてきた中国、インド、アフリカ・アラブ・南米の後進国、いわゆるグローバルサウスはロシアを(消極的ではあるが)支持し、世界は一つになるどころか真っ二つに割れている。そして国連は相変わらず無力である。
それでは、私のこの2020年1月2日の願いは無駄だったのだろうか。
いや、決してそんなことはない。
意識の覚醒と言うと抽象的でわかりづらいが、
覚醒すれば自分の目線だけでなく相手目線で物事を判断でき、さらに神ならどうするか、そういう客観的視野を持つようになる。
周りの人々や恵まれない人々に思いやりをもって愛を実践していけば意識レベルが上がっていく。
そして
自分の意識レベルが上がると、何もしなくても、そのエネルギーを受けた周囲の人々の意識も上昇しやすくなる。
たとえば、怒りまくっている人に思いやりの気持ちをもって話を聴いてあげるだけで、その人の怒りが鎮まる。
誰かからひどい仕打ちをされても仕返しは考えないようになる。
報いを与えるのは神の仕事であり私たち人間の仕事ではない(記事14)、と理解できるようになるからだ。
その人がなぜそのような行為をしたのか、その人の立場に立ち、その行為に至ったこれまでの苦しみ、辛かった過去を思いやり、受けとめてあげる。
そうすることで私たちもその人を恨まずに済み、その人自身も理解されることで気持ちが救われ、たったそれだけで、その人がもっていた悪意が消えることさえある。
このように、
私たちの意識が目覚めていけば、時間はかかってもいずれ世界は一つになる。
だが意識が低いまま願いが叶うなら、難関大学に合格したとしても、人を学歴だけで判断して見下したりするようになるかもしれない。
願いが叶い病気が治って健康が回復しても、今度は体力任せにあちこちの店でマスクやトイレットペーパーを買い占めに走り、必要とする人の分まで奪ってしまう、ということも起きる。(というか日本中で実際に起きた)
一つ、例え話を出してみよう。
我々一人一人がそれぞれ大きな船の船長で、それぞれの乗組員は船長自身の大切な家族や恋人だとする。
ところがどの船も浅瀬に乗り込んでしまい今も座礁しようとしている。どうすれば座礁を免れるか?
我先にと船を大海に向けて戻そうとしても、互いに衝突し合って座礁する前に沈没してしまう。
こういう時は、水面が上昇してくれれば全ての船は座礁を免れるのだ。
それならば船の高度な操縦術や他の船との緻密な連絡技術など一切不要。
ここでいう水面の高さは意識レベルの高さを表している。
海が浅いから(意識レベルが低いから)他の船より先に大海に出て自分だけは座礁を免れたい
→利己的で意識レベルが低い願い
水面が上昇すれば(意識レベルが高まれば)みんな助かる
→ 神の思い、意識を覚醒した人の願い
つまり、
人類の意識が高まれば、策を弄せずとも全ての問題は解決し、One Worldが実現する。
ということだ。
さて、そもそも願いが叶ったら叶ったでみんなお礼参りはしているだろうか。
私が神社で多くの絵馬を眺めた限り、そのようなお礼を表す絵馬はなかった。
我々は溝に落ちて戻れなくなった犬や猫を見かけたら、手を差し伸べて掬い上げて助ける。
人が見ていなくてもそうするし、おそらくヤのつく人や犯罪者でもそうする。
(全ての人に無償の愛が備わっている証拠だがまあこれは別のテーマ)
だが、その助けられた動物は感謝の気持ちなどなくさっさとどこかに行ってしまうはずで、助けた人もそれを怒ったりしないだろう。
同じように我々がお礼参りなどしなくても神々は怒ったりはしない。意識の眠っている人間だから仕方ないと思うだけだ。
だが、今の世の中は自分のための願い事ばかりでその利己的なエネルギーはもはや飽和状態にあり、他者への思いやり、利他の精神、自分の中の神に繋がる本来の「祈り」が絶望的に不足している。
それが世界の争い、混乱、混沌の本質的な原因である。
世の中の事象は、我々が過去に行った目に見えない祈りや願い、感情、思念のエネルギーが物質化しているだけである。
行動しないと変わらないと世間は言うが、行動とはその思考、念が時を経て熟したときにそのエネルギーに導かれて自然に行われる。
あなたのポジティブ(ネガティヴ)な祈りをあなたが実行に移す前に誰かがそれに感応、共感して実行に移すこともある。
思考・念・感情が先で、行動はその影、結果に過ぎないのだ。
愛に満ちた利他的な願いや祈りが増えれば、利己的な負のエネルギーが打ち消されて(時間はかかるが)世界中の不幸な出来事はこの世に発生しなくなる。
逆に、怒りや憎しみの心で世の中の平和を実現しようとすれば、平和の名の下に暴力や破壊行為が行われ、最悪の場合は人の命も奪われる。
以前、私はアダム・グラントの「Give&Take」というビジネス書を読んだことがある。
与えたがるGiver(ギヴァー)、もらいたがるTaker(テイカー)、もらえるならあげるMatcher(マッチャー)、このうち一番成功するのはGiverだが一番沈むのもGiverだそうだ。
働きもしないで無心ばかりする人にお金を渡すような、相手のエゴの言いなりになる盲目的かつ知性のないGiverはカモにされ潰されるが、そのようなたかり屋のエゴにはお金は決して渡さず、働けと叱咤するなど、相手の魂、ハートに本当に大切なことを与えるGiverが成功する、ということだ。
そのアダム・グラント氏の考えに基づけば、神々、高次元のマスター、天使は究極の成功者タイプのGIverだ。
高次元の存在は、私たちの魂の成長を見守り、時には指導してくれるが、エゴによる願いは叶えてくれない。
叶ったと思われるケースは、その人自身の欲望が引き寄せるパワーとネガティヴな存在が支援したからだ。
(実現しても喜びは永続せず、カルマが生まれるだけ)
また、神が何もしてくれないと思うのは私たちの中のエゴがそう思っているだけで、もしかしたら◯◯大学に合格しますようにと願っていても、実は△△大学に入った方が良き友に出会えて幸せになれるかもしれないのだ。
神々、高次元の方々はそれに気づいているから◯◯大学には合格させない、なんてことだってある。
我々は水や空気があるのは当たり前と思ってなんの感謝もしないが、水や空気を維持してくれているのは神である。
神は、私たち人間が知らないだけで、本当に必要なものを私たちに与え続けてくれている。
人間の視野など、神、高次元の存在の視野に比べたら盲目に等しいのだ。
そんな視野で願いを立てるくらいなら神に全て任せたほうが良い結果が生まれる。
私自身はいろいろと不完全な人間だが、神様の活動に対して私の祈りはほんの僅かではあるが後押しになっているようである。
私は昨年9月に不思議な祭囃子に遭遇した。(記事20)
彼らが私の前に現れた理由は、
「お前はいつも一人で祈ってるけど、私たちと一緒に神々の前で祈ろうではないか」
と、私が普段行かない神社へのお誘いであったことが後にわかった。
私はこれまで新興宗教だけでなくキリスト教、仏教、神道などの伝統宗教にも関わることはなかったが、私のもとに訪れて神楽を奏でてくれたその高次元の方々の誘いを受け入れ、冒頭に掲げた祈りを神社でも捧げるようになった。
そんな神社参拝の日々が続く中、とある神社に日本の神の一人である国之常立神(クニノトコタチノカミ)の言葉が紹介されていた。
私は以前、「戦争反対と叫ぶ方々へー真の平和は私たちの内にしかない」という記事を書いたが(記事10)、その神の言葉は奇しくも私の思いでもあった。
私は国之常立神という日本の偉大な神にお会いできることは一生ないと思うが、私なりの祈りを、自宅でも神社でも、また異なる場所にいようとも、これからも捧げていきたい。
別の機会に、そんな日本の神々の系統の方々と私自身の交流について語ってみたい。
今回も読んでくれてありがとう。
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