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11 スピリチュアルな活動とお金の関係について

前回の記事10の最後に、次は投資について書くと述べたが、とりあえずスピリチュアルな活動とお金の関係について述べてみたい。

今回はスピリチュアル体験談でなく現実的な話であるがそれはそれで参考になるかと思う。

世代がバレてしまうが、私がまだ大学生の頃は80年代のバブル時期だった。

当時の私は生きることの意味を求め悩んでいた。その回答が見つかることを期待して、とあるスピ系のセミナーに参加し、それをきっかけにヨガや占星術やタロットなどに詳しい人々と知り合った。

彼らからはいろいろと学ばさせていただいたが、彼らには一つ共通点があった。フリーターや無職ばかりで定職についている人が少なかったのだ。

まあ当時はバブル期ゆえにアルバイトの求人も多く、今と違って正社員になれないからバイトというわけではなく、バイトは夢を追いかけて自分探しのための選択肢とされ、時代がその背中を押している感があった。なのでフリーターや無職ばかりというのは当時としては決して珍しい現象ではなかった。

が、彼らの中には妙なことを口にする人たちがいた。

「この世は後10年ちょっとで終わりになるんだ。終末が来るまでに少しでも意識を目覚めさせて人々を救わなければならないから、俗世間の仕事などしてる場合じゃない。君も大学なんて早くやめたほうがいいよ」

当時はノストラダムスの大預言が話題になり(どこまで本気かはともかく)信じている人も少なからずいたのだ。

(ノストラダムス)

それらを真に受けたからか知らないが、実際に学校を中退したり会社を辞めた人もいた。

私自身は人が言うことを鵜呑みにする習慣はなく、実際に自分の目で見たもの、自分が直接経験したものしか信じない。スピリチュアルなタイプというよりは徹底したリアリストである。
(まあ私の場合、一般の人が見えないものを見たり、言っても信じてくれそうもない体験をするので、それらも現実として受けとめてのリアリスト。つまりスピ系とリアリストのハイブリッドと言えるかもしれない)

そのため、私は大学を辞めた方がいいと何度も言われたが心が揺らぐようなことは絶無だった。

私の方も彼らが会社を辞めようが学校を中退しようが個々人の自由だからどうでもよかった。

私はその後、大学を卒業して普通に就職をして社会人となった。

上述したスピリチュアルな人々は、バブルが弾けたせいか消息は途絶え、私も仕事に追われる日々に入ったため、互いの交流は途絶えた。

ところがその何年か後、そのスピ系の知人の一人が連絡してきた。それほど親しい人ではなかったのにぜひ会いたいとのこと。嫌な予感しかししないので多忙を理由に断っていたが、頻繁に連絡がくるので一度だけ会うことにした。

彼の話はやたらと長く回りくどく要領を得なかったが、要は、ある覚者の教義を学びに海外に行くのでみなさんからたくさんの支援をいただいたという内容だった。
ヌートピアンさんは会社お勤めだからたくさん貯金があるでしょう、と言ってから口をつぐんだ。

自分からは切り出さないが、私は当時の知り合いの中では定職についた数少ない人物だからお金を持ってそうに思われていて、私の口から資金援助したいと言わせたいようだった。
(要はカモ認定されたということ)

「みんなから支援をいただいたとのことですが、今お仕事をされていないのですか」

「私は神の仕事、人を救う仕事をしなければいけないので勤務していた仕事は辞めました」

「貯金とかないのですか? こういうことは自分でお金を貯めてそれで行うべきでは?」

「神やマスターは必要な時に予想もしない形で援助をくださいますから」

どうやら貯金もなく人からの寄付だけを当てに海外に行こうとしているようだ。

私が、寄付とか言ってないでまず働け、と言うと黙り込む。そしてまたなんか人類の救済がどーのこーのと言い出す。その繰り返し。埒が開かないので彼のランチ代もこちらで引き取り勘定を済ませた上でさっさと別れた。

彼らは、現実からの逃避のために終末論を口実に働こうとせず、それでいてスピリチュアルな知識は豊富だったので人々を救う立場にあるという思い込み、プライドがあり、それが自身の支えになっていたようだ。

以後、私は当時のスピリチュアル系の知り合いとの交流を完全に断ち、一人で真理の追求を目指すようになった。

ちなみに私は記事9で無条件の愛について書いたが、誤解なきようにここで補足しておく。

「無条件の愛」は「盲目的な愛」ではない。

「無条件の愛」は自分のハートと相手のハートと共鳴し一体となる行為。意識の目覚めがないと実践できない。

「盲目的な愛」は相手のマインドコントロールに支配され、意識が眠った状態。または激しい執着による狭い視野。それはエネルギー的に愛ではない。

無条件の愛とは真に当人の精神的、霊的な成長を助けるものであり、怠惰や金銭欲といったエゴを肥大化させることではない。

愛は優しく温かいエネルギーでハート同士で共鳴するが、エゴには共鳴しない。

以上、補足おわり。

なお、真の覚者の場合、実際に俗世間の仕事をしないケースもあるだろう。それは本当に崇高な次元と自身のハートがつながっているからであり、また無限に徳を積んできたからそうできるのだと思う。

今この記事を読んでいる皆さんが熱心に仕事をしなくてもスピリチュアルワークに専念できているなら、それだけ(前世での行いも含めて)徳を積んできたか、現在、目に見えない偉大なパワーと自身のハートがつながっていて援助を受けているからかもしれない。そうであれば傍目から無職でも家族の世話になっていても遊んでいても問題はない。

ただし、高次元とつながっていない似非スピリチュアリストが形だけ覚者の真似をしても、お金に困り、真理の追求どころではなくなる。常に誰かに頼るか、巧妙に騙すか(当人は騙しているなどさらさら思っていない)、いずれにせよ人の懐を探り、それを当てにする生活をしなければならない。私が上の例に挙げた彼はまさにそれだった。

もし自身が覚者でなければ、仕事をしながらスピリチュアルワークを行い意識を覚醒させていく。それが遠回りのように見えて確実な道かと思う。

ヨガナンダの師のそのまた師であるラヒリ・マハサヤは出家して世間一般の仕事を放棄することはしなかった。結婚もして政府の会計士として働いて家族を養った。そして組織を後援することは滅多になかった。

 (ラヒリ・マハサヤ大師)

夫として、父として、社会人として全ての責任を果たしながら大悟し人類を導いたラヒリ・マハサヤ大師、なんという偉大なヨギであろう!

それにひきかえ、私自身の場合、現実は厳しかった。仕事において上司や同僚の強烈なエゴに巻き込まれてメンタルをやられたことは一度や二度ではない。それゆえに私は会社に依存しなくてすむように、投資を通じて配当などの不労所得を得るように努めた。

それで生計が立てられるならば、仕事を辞めても誰にも迷惑をかけることなくスピリチュアルな活動を行うことができるからだ。

その成果が出て今ではFIREできる資産を築くことができた。退社すべきというメッセージが与えられればいつでもフリーにもなるつもりだが、会社における使命がまだ残されているようで、今も元気に勤めている。

目に見えない崇高なる存在(神)とつながって願いをたてるなら、ふさわしい時期にそれこそ自分が想像もしない形で、スピリチュアルワーク及びその啓蒙活動に専念できる日が来るだろう。
(ただし崇高なる存在とつながらない願いはただのエゴの欲望であり、いずれは瓦解する)


以上、読んでくれてありがとう。

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