21 霊感・啓示・直観ー事例研究(直観-理論編)
今回は霊感・啓示・直観のうち、最後の直観編に入る。
霊感、啓示の詳細はこれまでの投稿を参照いただきたい。
(記事17、記事18、記事19、記事20)
直観編は文章量が多いので、今回は理論の説明を行い、次回の投稿(記事22)にて、私なりの直観に基づいた判断例をアップする。
この理論編はいささか抽象的で退屈かもしれないが重要なのでお付き合い願いたい。
後半の判断例については、これまでの私の体験例とは異なり、身近な物事について、私たちの精神的進化や心身の健康にプラスになるかマイナスになるか、という視点で個々に記載してみた。
<直観(イントゥイッション)ー理論編>
霊感・啓示と直観の違い
霊感(インスピレイション)、啓示(レヴェレイション)は、自分から求めるものではなく、霊的存在、高次元から突然与えられる予測不可能な恵み、恩寵であり、私たちは常に受動的である。
それに対して直観は、彼らの助けを必要とせず、自身の内にあるハートを通じて直接、知りたい情報を引き出すので、常に主体的かつ能動的である。
観自在・観世音=直観
直観の「観」は観自在菩薩、観世音菩薩の「観」である。
観自在は時空を超えて世界中のありとあらゆるものを観てその本質をとらえる。
観世音は時空を超えて世界中のありとあらゆる音、声を聴きその本質をとらえる。
直観は観る、聴くの区別はもはや不要で瞬時に本質をとらえるので、霊的能力としては最高峰として位置づけられる。
一般に言われる霊能力には霊視、霊聴、テレパシーなどがあるが、それらは低次元のネガティヴな意識レベルでも可能である。
それに対して直観はエゴを放棄して意識が目覚めたポジティブな状態でないと機能しない。
「観る」と「見る」の違い
なお、「観る」と「見る」は異なる。
「観る」は意識を覚醒して観ることであり直観の基礎をなす。
「見る」は単に肉体の視覚を通して映像を脳に送っているだけで、心ここにあらずでも見ることはできるが、何を見たのか意識に深く入っていないため、直観には結びつかない。
私たち人類はほとんどの時間、意識が眠っているので、見て反応しているだけで、観ていない。
(「聴く」と「聞く」も同様)
それゆえに私たちは、政府・与党、右翼団体のプロパガンダ、野党や左翼系団体のアジテーション、マスコミの偏向報道による世論操作、企業の過大広告、金儲け主義の新興宗教等にいともたやすく洗脳され、盲目的に信じてしまい、操り人形のように彼らの思惑に従って踊らされる。
もし我々が「観る」「聴く」ことに努めて直観を磨けば、彼らの洗脳しようとする意図を看破し、情報の真偽を見抜き、洗脳された他の一般大衆からの同調圧力にも屈しないようになる。
観自在=直観は、一度も会っていない人でも、その人の名前や写真に意識を集中するだけで、その人の意識レベル(エゴを放棄した覚者か、愛の行動をとっている人か、エゴに支配され自分の利益だけ考えている人か、等)を見抜くことが可能だ。
たとえば、Aさんが「Bさんなら知ってるよ、私、親友だからBさんのことなら誰よりも私が一番知っている、彼いい人だよ」と言っても、直観が使えるCさんがBさんに意識を集中すると、BさんはAさんの思っているのとは違い非常にネガティヴな人であると分かる場合がある。改めて周周辺を調査するとBさんはAさんを利用しているだけで陰ではAさんのことを悪く言っているという事実が明るみに出てきたりする。
直観=観自在を完全に駆使できるのは、観自在菩薩、いわゆる観音様と言われてきたくらいなので、その直観を使える人はこの地球上では極僅かだろう。
ただし、その直観の域に到達していなくても、それを補う手段がある。
直観に準ずる職業的勘
現世で長年、携わってきた仕事や趣味の経験による「勘」はその直観の支えになる。
刑事があの人物が真犯人だとピンとくるのは職業的「勘」の一つである。
囲碁や将棋のプロが20手先、30手先の最善手を瞬時に知るのは、直観に近い。
膨大な経験値の集約、データ蓄積があるから一手一手を辿らずとも跳躍的に最終手が思い浮かぶ。
ただし、それらの「勘」は積み重ねた経験からくる解答への道筋、引き出しが多いだけで、職業、趣味等、長年携わってきた領域の範囲に限定される。
そのため、職業的「勘」自体はスピリチュアルな能力ではないので直観とイコールではない。
しかしながら、日々熱心に仕事に励んでいると、インスピレイションを得る機会が増えて一芸は多芸に通ずるようになるので、その勘の活用範囲も拡大していく。
さらにその仕事の励みが(お金や出世欲ではなく)家族や顧客、さらには社会への純粋な献身行為であれば、高次元とつながり意識が覚醒し、直観へと発展する。
さて、直観も勘も自信ないと言う方へ。
あまり難しく考えなくてよい
(長々と難しいこと書いてるお前が言うなってか)
私たちには身体の声という第3の道がある。
直観と勘を表す生体反応
人は生まれながらにネガティブなものを見たり触れたりすると(意識するだけでも)身体が緊張してこわばる(それでいて力が入らない)。
それがポジティブなものであれば、身体がリラックスする(それでいて力がみなぎる)
オーリングテスト、キネシオロジー、ダウジングのペンジュラム等はその生体反応を活用したものだ。
たとえば白砂糖を触ってオーリングテストをすると指で作った輪っかはあっさりと解かれるが、玄米とかであれば輪っかはほどけない。(白砂糖は健康を害し、玄米は良いことがわかる)
健康面だけでなく人の意識レベル等も分かる。
たとえばイエスキリストやお釈迦様の肖像画を見ながらオーリングテストを実施すると、リングは解けないが、どこかの怪しげな新興宗教の教祖であれば、あっさり輪は解ける。
この世の身体を持つ限り、この生体反応があり、実社会で培った勘は身体に反応し、直観という内なる声もまた身体に反応する。
つまり、この生体反応は勘を直観に繋げる接点であり、それを目に見える形で示してくれる。
直観(観自在、観世音)
↓
生体反応 → <直観を可視化>
↑
勘(蓄積された経験からの引き出し)
生体反応を用いた調査における注意点
ただしこれらの生体反応を利用した上記のオーリングテスト、ダウジングのペンジュラム等を一人で行う場合は、使う人自身がもともと持っている信条(Belief)が影響を与えて逆の結果が出たり事実を歪める場合があるので注意。
たとえば誰かを調査する場合、調査対象者が調査する人にとって尊敬している人物であれば、実はネガティヴな人物であっても、調査する側の思い入れによりポジティブの結果が出る場合がある。
自分自身を調査した場合、本当はネガティヴであっても、元々プライドが高い人はそれを認めたくないので結果はポジティブへと誘導され、スピリチュアルエゴが肥大化しているとさらに覚者、聖者クラスの方向に結果へと誘導されてしまう。
上記の生体反応は本当に繊細でダウジングでもオーリングでも指先のほんの僅かな筋肉の違いで結果が変わる繊細なものだから、無意識のうちにエゴが虚偽操作をするからである。
どうしても自分のことを知りたいなら二人以上で実施するか、公平でニュートラルな第三者でかつポジティブな人に依頼することが望ましい。
このような弊害もあるので私はオーリングもキネシオロジーもダウジングも行わない。
これまでの経緯、経験をもとに、本来のハートからくる直観と身体の生体反応を直接感知して総合的に判断している。
以上が直観ー理論編である。
実際の判断例は次の記事22にて提示、解説する。
以上、読んでくれてありがとう。