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19 霊感・啓示・直観ーその事例(啓示編2ー警告)


1 霊感ーインスピレイションーInspiration
2 啓示ーレヴェレイションーRevelation
3 直観ーイントゥイッションーIntuition

前回に引き続き、2の啓示ーレヴェレイションの別の体験について語る。

前回の覚醒体験より前、大学生のときに起こった出来事である。

私は普段の投稿で偉そうなことを書いているが、実際には、いかに弱く情けないかがよく分かると思う。

<啓示の体験例2ー愛の葛藤・警告の奇蹟>

小学校のときのことを記事15に書いたが、私は大学に入っても教授らの講義には全く興味が持てず、殆ど出席することなかった。

私が求めるこの世の真実、人は何のために生きるか、それを知る可能性は絶無だったからだ。

大学には殆ど行かなかったため、単位不足の留年の危機に常に晒されていたが、私の場合、奨学金という名の借金をしていたので、一年も余計に授業料を払うのは無理だったので留年だけは避けねばならなかった。

そのため、一夜漬けの学習か、友人らの間に出回る模範解答のコピーを入手して、都度、一発勝負の期末テストにかけて、ぎりぎりの最低合格点をとって留年を回避していたが、いつ単位が足らなくなって留年するかといつも不安な気持ちだった。

卒業して何十年経ってからも、単位不足で卒業できない夢を繰り返し見て、目が覚めてから、あー夢でよかったーと胸を撫でおろしていたくらいだ。
(だったら真面目に授業でろよって話だが)

いろいろ反省すべき点は多かったが私は留年することなく卒業できた。

大学に顔を出さない分、アルバイトをして生活費を稼いだり、頼まれればボランティア活動に参加したり、スピ系の友人と会ったり、一人孤独に本を読んだり瞑想したり、大学の仲間から誘いがあれば夜を明かして酒を呑んだりと、気ままな生活をしていた。

私は基本的に団体行動や気の合わない人との交流が苦手なので交際範囲は狭い。

知り合いの女の子達には優しく接していたので評判は悪くなかったようだが、自分からデートに誘うなんて考えたこともなかった。

青年男子として女の子に興味がないわけはないはずだが、正直、女性との付き合いは面倒くさいという思いがあった。

私はフェミニストでもないし、女性が関心を持つようなファッションや流行などの世事に疎かったので会話に自信がなかったからでもあった。

ところがどういうわけか、そんな非社交的な私にいろいろと暖かく接してくれる女性がいた。彼女のことを、ここでは仮にC子と呼ぼう。
(Cはイニシャルにあらず。念のため)

C子は可愛らしい感じの女性だったが、美人ではなく目立つタイプでもなかったので、当初、私は殆ど彼女を意識することはなかった。

C子がいろいろと親切にしてくれるので、お礼に映画に誘ったりしたこともあったが、基本的にお金がなかったので一緒にいても街をただぶらぶら散歩する程度だった。

私はその頃、自分のアパートの部屋を大学の悪友たちとの酒盛りの場として提供していたが、いろいろと周囲からうるさいとクレームが入っていた。

元々孤独に瞑想したり思索に耽るのが基本行動だったので、これを機会に彼らと距離をとろうと思い、大学からずっと離れたところに引っ越しをした。

彼らは来なくなったが、その入れ替わりのように、ずいぶん遠く離れたところなのにC子が遊びに来てくれるようになった。
彼女は気立てがよく料理もよく作ってくれた。

私とC子は正式に付き合っているわけではなかったが、男女カップル2組でどこかに行こうと友人から言われたりして女性一人誘う必要が出てきたら、C子に声をかけていた。
(というか他に誘う相手がいなかった)

C子は私のどこが気に入ったのか知らないが、彼女と私がよく一緒にいることで事実上、交際しているも同然になっていった。

普段一人で悩みながら生きていたせいか、C子がそばにいてくれることで一時的にも孤独感が消え去り、癒しを感じたのは事実だった。

二人で窓の外から遠くの空を眺めていて、ふと隣にいるC子に振り返ると同じように彼女も私に振り返るので、自然な流れでキスしたりした。

私がぎゅっと抱きしめても彼女は何ら抵抗せず私に身を任せた。

私は何となく、このまま社会人となり、C子と結婚するのかな、そんな思いも頭をよぎった。

だが私はスピリチュアルな世界であれこれ試行錯誤を続けているが、C子はごくごく普通の女性であった。

C子はその方面の知識もなく、私のように目に見えない次元を感じとることもないしそもそも興味もなく現実的である。

なので私がここで話しているようなことは一切理解できなかった。

C子はただこの社会で、平凡で慎ましくも楽しく明るく暮らせればいいと思っていたはずだ。

まあ世間からみれば彼女がまともで私が変人である。

いずれにせよ、その生き方の違い、価値観、感性の違いはどうしようもなくよく言い争いになったりもした。

それでいてお互いを求め合い抱き合ったりしたまま長い時間を過ごすなど、矛盾した行動を取り続けた。

実際に男女それぞれのエネルギーというものはお互いを激しく引きつけ合う磁力があり、恐ろしいと感じた。

抱き合っているだけで電流や磁気が身体を駆け巡る感覚があり、彼女から離れた後もそのエネルギーが私の身体からしばらく消えなかった。

男女のエネルギーは、二人が互いに真実の愛を育み、目指す方向が同じであれば素晴らしいパワーとなるが、価値観が合わず愛を育めなければ、そのエネルギーは二人を別れさせずに縛る足枷、鎖にもなる。

男と女のそれぞれのエネルギーは強く引きつけ合い、二人を天に上昇されることもあれば地の底へと下降させることもある

私はC子といると、真理探究、自分の意識の覚醒という目標に向う道から外れてしまうのではないか、そんなことを考えるようになった。

一方で、真理探究とかは学生運動と同じで若いときだけのもので、卒業したらごく普通に就職してC子と結婚して働きながら家買ってローン返しながら子供を育てたりしていくのかな、という妥協した考えも頭をよぎった。

実際にC子は私の就職先にも、あまり転勤がないところがいいとか、家庭をもってからのことも示唆し始めていた。

だが、

ーそれは自分の人生じゃないー

私の内なる魂はそう叫んでいた。

相変わらずC子は何をされても抵抗せず、キスされようが抱かれようが衣服を脱がされようが、私に身を委ねていた。

だが、私はありったけの自制心で最後の一線は守り、それを越えることはなかった。
(誰も信じないと思うけど事実なので)

そして、ある日のことだった。

C子と私はいつものように私の部屋で過ごし、相変わらず抱き合い甘え合っていた。

と、そのとき、部屋の中から突然、

「◯◯!」 と強い口調で私の名前を呼ぶ声がした。

当時の我々よりはるかに年上の高齢の女性の声で、語調が強めで明らかに警告の口調だった。

その声はC子も同時に聞いたらしく、私とC子は突然のことでびっくりして顔を見合わせた。

当然部屋には二人しかいない。

窓の外にも構造上、人の入るスペースはなかった。

だが、とにかく声がしたのは確かだった。

私とC子は慌てて衣類を着直して身なりを整えた。

情けないことだが、不思議さや驚きと同時に咄嗟に行ったことがそれで、誰かに見られているなら恥ずかしい、その思いからそうするのが精一杯だったのだ。

その謎の呼びかけをしそうな女性は、親族ならいそうだが、出身地から離れていた当時の私に対して、私の下の名前を呼び捨てで呼ぶ年配の女性など周囲にいなかった。

その不思議な謎の警告を聞いてから、私とC子の関係は自然消滅していった。

C子からすれば、普段の私が語る話は理解できなかったが、そのあり得ない謎の警告を実際に自分も聴くという体験をしたことで、私の話は本当だったと初めて理解し、私とは一緒にいてはならないのだろうと彼女はそう悟ったのかもしれない。

私は卒業して社会人になってから、一度だけ彼女から連絡を受けて、何かのコンサートを観たことがあった。

再会してお互いが元気であることを確認できた。

私たちが歩き始めたとき、彼女は私の手を握り、私も拒まず二人手を繋いで会場に向かった。

だが、私はそれ以上、彼女に触れることをしなかった。

C子は、私に復縁する気があるのかもう一度確かめたかったのかもしれないが、その時が彼女と会った最後となった。

私の神秘体験、たとえば霊視、霊聴、幽体離脱、テレパシー、覚醒体験は、いずれも自分一人の個人的体験であり、他人との共通体験ではない。

それらの体験は、瞑想などの内的ワークや自身のエゴとの戦いを通じて培われた私自身の意識の変性によるものだと、私は思っている。

個人の内的体験だから、内容の説明はできても目撃者もいなければ第三者への科学的証明も提示できない。

ただ、このような現代の科学では説明できない神秘体験は、近い将来、信仰や哲学といった人文系の分野にとどまらず、精神医学や脳科学、さらには量子力学の分野で全て説明できる日が来ると確信している。

ところがこの警告は違っていた。

私だけでなくC子もその声を聴いたからだ。

私個人の内的体験であれば、この物質世界、現実世界は影響を受けないため、彼女はその声を聴くことはなかったはずだ。

ところが、C子にもその警告が聴こえたということで、もはや私の個人的かつ内的な神秘体験という説明がつかなくなった。

それゆえにこの体験はありえない奇蹟だった。

このような奇蹟を私と一緒に体験したのは後にも先にも彼女だけだ。

この奇蹟は、彼女との別れを導いたほろ苦い奇蹟だったが、私にも彼女にもそれぞれの歩むべき道を示し、私たち二人を円満に別れさせてくれたのだ。

愛を知ることは愛欲に溺れることではない。

真の愛を知り慰めなど不要になれば、孤高であり続けられる。

誰にも頼らずに真理、神を求めていても、寂しさのあまりに慰めも求めるならばそれはただの孤独でしかない。

このような純粋な思いは青年期特有のものであるかもしれないが、この体験をしたことで、私は今でもそのように考えている。

また、そのような思いがなければ、私はC子と暮らしはじめ、意識の覚醒や様々な至福を体験することはなかっただろうし、自力で無理に別れようとしていたら、よくある男女間の揉め事にもなったはずだ。

いつの時代にも、愛欲に溺れて這い上がることもできず、縛られた生活を始めて夢を捨ててしまった人が星の数ほどいたことだろう。

この警告の奇蹟は、その私の葛藤の思いを断ち、一瞬で我々二人の運命の軌道を変えた。

私は彼女と別れた数年後に意識の覚醒、神の愛、真理を求める私の思いに理解ある女性と結婚した。

そのターニングポイントとなった意味でもこの警告の奇蹟は愛への奇蹟でもあった。

私はその後、私を守護してくれる高次元のマスター集団に会ったが(参照:記事15)、今思えば、この警告をくれたのは、そのマスター集団のどなたかかもしれない。

私は今も真理、意識の覚醒を求め続けているが、青年期を通り過ぎて人生の後半に入っている。

今も未完成で失敗も多いが、若いときに体験したような迷いや誘惑は、もうない。

それゆえに、このような奇蹟はもう二度と起こらないだろう。

読んでくれてありがとう。

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