181125小野_セックスに眠りを求めていた時のこと

セックスに眠りを求めていた時のこと


 25歳まで、私は上手く眠れない人間だった。

 「子供の頃、母親からの愛情を十分に感じられなかった人間は、大人になってから不眠に悩む可能性が高まります」
 事実かどうかはわからない。ただ、私を目の前にしたカウンセラーも心療内科医も、そのようなことを言った。
 そんなこと、今更言われたってどうしようもないじゃない、とその度に私は胸の内で毒づいた。

 「回復には、まず、安心できる環境を作る必要があります」

 ぐご、といびきをかいて隣で男が寝返りを打つ。頭の下に敷かれた腕は収まりが悪く、かえって首が凝りそうだった。
 ホテルに着いて抱き合った瞬間には安堵と錯覚していたたタバコの匂いと加齢臭は、今では眠りを阻害する不快な因子でしかない。

 「ビッチ」
 さっき会社を出るとき、オフィスフロアのどこかから投げつけられた言葉だ。無機質なパーテーションの向こうから飛んできたそれはすぐに、くすくすという複数の笑い声に変わった。

 別に、なんとでも呼べばいい。
 本当のことを言われたって、傷つくわけがないもの。

 セックスを求めるのは、その後であれば安心して眠れる気がするからだ。
 けどそれだってほんの束の間、浅瀬に浸かるような、淡いものでしかない。

 子供の頃、シングルマザーだった母はいつも夜中まで仕事に明け暮れ、私が寝付くまで側に居てくれた事はなかった。抱きしめられた記憶も、驚くほど無い。

 母を恨む気などない。
 けれど、何かが抜け落ちているような感覚は、自分ではどうしようもない。

 今日の私はーセックスの最中の私は、彼の中で「何位」だっただろうか。
 考え始めた途端、頭が冷え冷えと冴えてゆく。

 ああ、今日も、ダメだ。

 男に、抱き枕以上の機能なんて求めてない。
 それなのに、どうして私は安心して眠れないのだろう。

 その日、相手が待ち合わせ場所に選んだのは駅前デパートの最上階の「キッズひろば」で、現れた彼は私を見るなり、えびす様のような柔和な笑顔で
 「ごめんごめん、短い時間で楽しめる場所、ここしか思いつかなかったからさ」
 と言った。

 時間があまりない、と送ったのはこちらだ。
 そう言うと、マッチングアプリで出会った男は大抵カフェかレストランを指定する。うわべだけの自己紹介を交わした後、ホテルになだれ込むのが常だった。
 しかし、ここは……。
 (楽しむって、どうやって)
 あたりを見渡す。昭和で時の止まったようなゲームコーナー。苔むした釣り堀。ヒーローショーのステージからは子供達の歓声が響いてくる。
 あまりにのどかすぎる光景に、セックスの相手を探しに来たのだという毒気も、肩の力も思わず抜ける。

 「ぎゃあっ」
 彼に促されて乗り込んだクマの形の乗り物は予想以上に凶暴に揺れ、私は思わずあられもない声をあげた。
 「あははは」
 髪を振り乱し、必死の形相でクマにしがみつく私を男は愉快そうに眺めている。
 彼の方こそ、クマみたいだ。巨体に太い眉毛。全く好みじゃない。
 さっき、仕事は何、と聞いたら、彼は「うーん」と言いよどみ、
 「もう少し、仲良くなってからでもいいかな?……女の子に敬遠されがちな仕事なんだ、きついし、汚いし」と答えた。
 「最初は素敵、って言われるんだけど、しばらくすると‘私と仕事、どっちが大事なの’なんて言われちゃう」
 ふぅん。ま、別になんでもいいけど。どうせセックスするだけだし。

 クマから降りた私を見て、男はニコニコしながら「うん、可愛い、可愛い」と言った。
 「はぁ?どこが?」
 せっかくデート用にセットした髪はすっかり乱れてしまっている。
 「なんで私、初対面の男とこんなことしてんだろ、って顔に書いてあるよ。その素直なとこ、可愛いなって」

 気づいたら彼のペースに載せられていた。夢中で遊び、広場にあるすべての遊具を制覇する頃にはすっかり日が暮れていて、私たちは8階にあるファミリー向けレストランに入った。ビールの泡が心地よく疲労を溶かしてゆく。注文したナポリタンの上には旗が載っていた。

 その店には大きなテレビが設置されていて、野生動物のドキュメンタリーが流れていた。
 ジャングルの伐採によって親とはぐれたオランウータンの赤ちゃんが、レンジャーに保護され育てられる様子が映されている。
 彼はそれを「かわいいねえ」とニコニコしながら眺めている。
 「動物、好きなんですか」
 「うん、すごく」
 まだ目の見えない赤ちゃんは、プラスチックの保育器の中で懸命に手足をバタつかせている。まるで、お母さんを探すみたいに。

 「……子供の頃に」
 ふ、と口をついて言葉が出た。
 「親から引き離されて育った動物って、大人になってから、大丈夫なんでしょうかね」
 彼はきょとんとしてこちらを見た。
 「大丈夫、って?」
 「その、生きてくのに不安を覚えたり、パートナーを見つけるのに苦労したり」
 ーー1人じゃ上手く、眠れなかったり。
 「しないんでしょうか、ちゃんと、生きて行けるんでしょうか」

  刺さる同僚の女子たちの視線。
  蔑むような男の視線。
  私はどこか、いつも世界とちぐはぐだ。

 ーー子供の頃に寂しい思いをした生き物は。
 ーー大人になって、ちゃんと群れで暮らせるんでしょうか。

 「あのね、これ、ぼくが知ってるほんの一説ね」
 不意に彼が話し出した。
 「哺乳類の、怖い、とか不安だ、とかを感じる神経ってね、胎児の頃から2歳くらいまでのあいだに発達するって言われてるの。その間に、お母さんに十分に抱きしめてもらえなかったり、不安や強いストレスにさらされながら育つとね、その神経の回路が麻痺してしまって、不安や恐怖を感じられなくなったり、逆に感じてしまいやすくなって、そこから抜けられなくなっちゃうんだ。——人間でいうとね、さびしい時に、さびしい気持ちを満たす方法の見つけ方が下手になる」
 「じゃあ、子供の頃に寂しい思いをしていた人は、ずっと寂しいままなわけ?」
 ううん、と彼は首を横にふる。
 「あのね、神経系の発達は、子供の頃に終わっちゃうんだけど、その機能を回復させることはできる。その方法はね」
丸く潤んだ二つの瞳が、優しげにこちらを見る。
 「“触られたい人に、体の触られたいところを、触られたい分だけ触られること”なんだ」
 「……触られたい人に、触られたいところを」
 「そう」
 彼はこくり、と頷いた。

 ふいに胸の内側を掴まれたような気がして、鼓動がどくん、と胸の内で暴れる。
 酔いのせいか顔が熱い。
 「あのね、その子が、一番欲しがってる方法で触れてあげたらね、動物も、人間もね、ちゃんと生きてゆけるようになるし、寂しいとき、寂しいって言えるようになるの」
 「だめじゃん」私は急いで言った。
 「寂しさを感じるようになっちゃったら、生きてゆけなくなっちゃう」
 彼は頭を振った。
 「寂しいって言うのはね。生き物にとって、大事な機能なんだよ。それがないと、つがいにもなれない」
 溢れ出そうになる何かを、私は必死に飲み込んだ。
 ずっと溶かして欲しいと思っていた氷。胸の内側にあったそれが、温かな光に触れて溶けてゆく。
 「もうこんな時間だね。……また会ってくれると嬉しいな」
 そう言ってレジに立とうとする彼を、私は引き止めた。
 「あの」
 ナポリタンの上の赤い旗が、まつげの隙間でぼやけている。
 「このあと、時間、ありますか」

 シャワーを浴びて出てくると、彼はテレビでディスカバリーチャンネルを見ながら待っていた。
 (本当に動物、好きなんだ)
 途端に、太い二本の腕が伸びてきて私の体を持ち上げる。まるで、赤ちゃんをあやすみたいに軽々と。
 「あっ」
 テレビが消え、部屋は暗闇に包まれる。
 触れるか触れないかの優しいキス。全身の力が一気に抜ける。
 彼は私の背後に回ると、ベッドに横たわった私の全身を両手でゆっくりと撫で始めた。まるで一箇所でも余らすまいとするように、丁寧に。
 酔いのせいで柔いだ体が、一層ほどけてゆく。
 こんなに繊細な触れ方をする男を、私は他に知らない。

 「他に、さわられたいところある?」
 十分にほぐされたのち、低い声で耳元で問われて思わず私は振り返った。
 目の前に、安らかな2つの瞳がある。
 「ここ」
 胸元に手を置く。
 2つの乳房。
 ではない。
 そのすぐ下、骨に守られない柔らかな窪み。
 体の下に敷かれた腕の力がすう、と抜ける。
 「ここ?」
 彼は私を抱え直すと、そのふくよかな手のひらを私のみぞおちに置いた。薄い薄い、ガラスの扉を押すくらいの、そうっとした圧で。
 じんわりと、彼の熱が私の体に染み込んでくる。
 まるで、一本の大きな木になったみたいだ。
 あ、と思った時には、涙腺が壊れていた。
 何筋も、何筋も、熱い水がほおを伝ってゆく。

 私、男に抱かれたかったんじゃない。
 こうされたかったんだ。
 好きな人に、好きなだけ、好きなところを、触り続けて欲しかったんだ。

 あーん、あん、あん。
 気がついたら私は大声をあげて泣いていた。子供のような泣き声が、胸の奥から溢れて溢れて止まらなかった。
 「こんな時、子守唄の一つも歌ってあげれたらいいんだけどねえ」
 彼が低く耳元で呟く。
 「僕、そういうの、一つも知らずに育っちゃったんだ」

 いったいどれくらい、こうしていただろう。
 呼吸が落ち着き、皮膚が冷えてきた頃、彼は再び尋ねた。
 「他に、触れられたいところ、ある?」
 振り返り、そうっと彼の体に触れる。途端に体の内側に感じたことのない熱が遡ってきた。
 「今度は、私があなたに触れたい」

 ホテルの電話に起こされて目を覚ますと、隣には乱れたシーツの痕だけが残されていた。
 ああ、逃げられたな、と瞬時に思う。
 いつ寝たのかも、彼が発つ気配にも気づかないほど、深く深く、眠っていたらしい。
 もぞもぞと起き上がり、テレビをつける。
 ボタンを適当に押すと、ニュース番組に切り替わった。
 「○○市の××動物園で先月生まれたパンダの赤ちゃんが、本日初めて報道陣の前に姿を表しました」
 画面いっぱいに映し出されたふわふわのパンダの赤ちゃんは、飼育員に抱かれて元気に暴れている。
 「赤ちゃんは飼育員さんに抱かれてご機嫌な様子でーー」
 カメラがパンし、背景が映し出された途端、
 「あっ」
 私は思わず声をあげた。

 彼だった。
 昨日私を抱き上げた、ふくふくとしたあの二本の太い腕が、赤ちゃんをしっかりと支えている。
 「……そら、上手なわけだわ」
 視界の隅で、何かがぽとりと床に落ちる気配がする。
 拾い上げたものを見て、笑みがこぼれた。
 「わかんないでしょ、これじゃ」

 ーー次に会ったら、今度は動物の抱き方を目いっぱいに教えてもらおう。
 動物園のチケットと、画面の中の彼を交互に見比べながら、私は胸の中でそう呟いた。



執筆: 小野 美由紀 (2018.11.25更新)
1985年東京生まれ。著書に、銭湯を舞台にした青春群像小説『メゾン刻の湯』(2018年2月)「人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み食べ歩く800kmの旅」(2015)「傷口から人生」(2015)絵本「ひかりのりゅう」(2014)など。月に1回、創作文章ワークショップ「身体を使って書くクリエイティブ・ライティング講座」を開催している。
Twitter: @Miyki_Ono


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