羽をのばしてみた金曜日
私にはコンプレックスがある。
実家暮らしであるということ。
周りからみて、ただ単に暮らしている箱が「実家であるか」それとも、「自分だけの家であるか」という二択だけではない。私が日ごろからいつも焦りや勿体無いという感覚を感じるのは、わたし自身の思考が止まっているようなかんじがするからだ。それと同時に、私の両親の思考も同様である。どうもわたしが2人の人生の幅をせばめている感覚しかない。
お金を入れているからいいじゃないか。
そういう問題ではない。
食事を作ればいいじゃないか。
そういう問題ではない。
掃除をすればいいじゃないか。
そういう問題でもない。
この前、わたしは殻を破るように、金曜日わざと、自発的に終電を逃した。たしか00:00を少し過ぎた時、いつも通り渋谷駅から実家のある駅までの電車に乗った。扉が閉まる前に、気がつけばホームに戻り、副都心線に乗っていた。
終電を逃す。逃した。逃してしまった。
まさにわたしのなかでは「逃す」行為。じぶんがしてみたかったこと、行ってみたかった場所にいままで行けていなかったんだなと気付いた日だった。
そのときにもまた、ラインが来る。家族に所属する上ではマナーとして、帰る帰らないを伝えたほうがいいのは分かる。ただ、それじゃわたしがそのときに1番としたい行動なんてできない。
どこかで、どう思われるかとか、なにをしてしまったとかそういう周りのことを心配しながらビクビクするなんて、わたしの人生じゃないよね。
ほろ酔いのとき、わたしは初めて自分になれる。じぶん1人で蔦屋書店にいるとき、わたしは初めて自分と見つめ合える。最近はあえて外にでることが多い。ほんとうならばじぶんだけの部屋が1番心が休まるだろうというのに。
じぶんの部屋を整理することもすき。
ただ、どこかじぶんだけの世界ではない。
こんな考え方、甘いなと思われるのだろうが、
食器を洗いなさいと言われて洗うのではなくて、食器を洗わずに放置をして痛い目にあってから、洗わなければならない状況が1番ただしいと思う。
何かをしたほうがいい。
こっちのほうがいい。
そんなものは、じぶんで痛い目にあいながら、じぶんなりのセオリーを見つけていきたい。
まあ、ずっとずっとそう思いながら動いていない私は甘いんですよねやっぱり。