初めて人を殺した日
私が初めて人を殺した日の話をします。
私は元看護師でしたが、前の記事で書いた通り、ストレートで看護師になったわけではありません。その頃の私は高卒で介護士をしていました。18歳でした。
高齢者グループホームというのは比較的症状の軽い利用者さんが入るものですが、結構ひどい症状の方も平気で入ってきます。佐藤さん(仮名)もそのうちの一人で、なかなか手を焼かされたような気がします。
朝、日勤の私たちは、夜勤の介護士から、「佐藤さんが起きてこない」と申し送りを受けました。よくあることだったので、私たちは「ああ、はいはいまたね」といった感じで報告を聞きました。
飲んでいる薬の影響なのか、佐藤さんは二日起きて二日眠るといったある意味で規則正しい(?)生活を送っていました。起きている日は本当に一晩中起きているのでなかなか大変で、眠っている日の夜勤に当たればラッキーくらいの扱いでした。
看護師になってから知ったことですが、すべての薬物は体内に入ってから吸収→分布→代謝→排泄の過程を辿ります。高齢の方は肝機能や腎機能が落ちていることが多いので、薬の排泄がうまくいかずに睡眠薬で寝すぎてしまったりするわけです。
危険なので、特に認知症で施設に入っている方はそう簡単に外出させるわけにはいきません。
ご家族に連絡して受診に連れて行ってもらえたら一番いいのですが、ご家族も働いていたりするのでなかなか日程の調整がうまくいきません。
悲しいことですが、中にはそれまでの介護疲れから、もうその利用者さんにはできるだけ関わりたくないというご家族もいます。
施設には医者の往診も定期的にありますが、短い時間で一気にたくさんの利用者さんを見るため一人一人をじっくりと見てはくれません。
結果、佐藤さんの薬も長いこと据え置きのままで、生活リズムも変わりませんでした。
私たちは昼まで佐藤さんをお部屋で寝かせていました。
昼になって一度食事のために起こしに行きましたが、高いびきをかいてよく寝ており、何度声をかけても起きないのでそのまま放置しました。
おやつの時間になって、さすがに起こして何か食べさせなければまずいだろうという話になり、体を揺すったり大声で呼んだりしましたが起きません。
今までは食事やおやつの時間には何とか起きてくれていたのに。
そこで私たちはようやく違和感に気付きました。
慌てて救急車を呼び救急搬送しましたが、その時にはもうとっくに手遅れでした。
佐藤さんはそのまま病院で帰らぬ人となりました。
もうとっくにお気付きの方もいるかもしれませんね。
脳梗塞です。
しかし看護師でもなく、医者でもない、ただ一介の介護士である私たちは本当に知らなかったのです。
ベテランの先輩ならば気付いていたのかもしれませんが、あいにくその日シフトに入っていた誰もが知らなかったのです。
高いびきが脳梗塞の前兆だということを。
ショックでした。
今まで体調を崩して病院に行き、そのまま入院して帰ってこなかった方ならいました。
でも、高齢者グループホームです。例外はあるものの比較的症状が軽い方が入居する施設なのです。
利用者さんが体調を崩すことも稀な施設で、こんな風に急変してその後亡くなった方を、18歳の私は初めて見たのです。
高いびきが脳梗塞の前兆だと後から知り、私は大変悔やみました。
私に知識があれば助けられたかもしれないのに。
もし私がお母さんのように看護師だったら助けられたかもしれないのに。
そんな驕り高ぶった後悔を、何日も引きずりました。
私の母は看護師です。
母方の祖父はそれまでに二回の心筋梗塞を経験していたのですが、どちらも母が一瞬で見抜いて九死に一生を得ています。
学力が足りなかったので諦めましたが、そんな母に憧れた幼い頃の私の夢は看護師でした。
就職先が見つからず仕方なく始めた介護の仕事でしたが、私は介護の仕事が好きでした。
高齢者の方が好きで、誰かの役に立てることにやりがいを感じてもいました。
でも、知識が欲しい。
介護士ではなく、やっぱり看護師になりたい。
小さい頃から不登校気味だった私は、看護学校を受験した時、九九すらまともに言えませんでした。
それでも奇跡的に受かったのは、介護士の経験があったのと、きっと面接で語ったこのエピソードのおかげでしょう。
准看護学校に入った私は、寝る間も惜しんで勉強しました。
周りがうまく先輩から貰った過去問を使いテストを切り抜ける中、過去問には絶対に頼らずとにかく勉強しました。
過去問から大幅に問題が軌道修正されみんなが赤点を取る中で、私だけは赤点を免れ先生に褒められたりしていました。(すみません自慢です!私の誇りなので!)
そしてストレートで北海道で一番良い正看護学校に入り、晴れて正看護師となったわけです。
ちなみに数学が苦手なので、公式こそ覚えてはいたものの看護師国家試験の計算問題は全て(本当に誇張なく全て)間違えていました。
それでも余裕で国家試験に受かるくらいには勉強したのです。
今は覚えていませんしできる気もしませんが、看護学校に入るきっかけになった脳の病気のテスト範囲など、100ページくらい一言一句間違わずに暗記して、周りをドン引きさせたものです。
あの日のことを話すと、周りはみんな、それは殺人ではなく事故だったんだよ、と慰めてくれます。あまり気に病まない方がいいよと言ってくれます。ありがたいです。
けれどやっぱり心のどこかで、罪の意識が消えないのです。
そんな私ですが…………今はなんと、看護師になった数年後、あまりの激務と先輩のイビリに負けてうつ病になり、仕事を休職中です!(笑)
今はとりあえず一度仕事から離れて、慢性腎不全ステージ5の夫に生体間腎移植をするため、がんばっています。
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